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羽倉考

立太子東宮宣下
明正院後光明院後西院不可有立太子乎之事
明正院、後光明院、後西院三代は、立太子の事見えざるよし、案ずるに、明正院は女帝なれば立太子の事ある可らず、古来女帝の立太子いまだ所見あらず、後西院は花町殿とて一品式部卿親王にて在しに、後光明院御在位にて俄に崩じ賜へれば、是亦立太子の事なきなるべし、唯後光明院は、明正院の皇太弟に立たまふべき事なれども、是も立太弟の事無りしにや、近代紹運録にも、後光明院の御元服の加冠理髪の人の名おさへ挙たるに、立太子の文なし、古例お考ふるに、必ず太子に立てゝ後に位お譲りたまふにも非ず、国史に見ゆる所、上代は妥靖仁徳以下、即位先帝の叡慮より出たる者は、皆立太子の事あり、是此時世には譲位と雲ことなくして、崩御まで御在位なる故、太子お立てざれば、次の位定まらざるが故と見えたり、皇極天皇に至りて、初めて位お孝徳天皇に譲りたまへり、而して孝徳立太子の事なく、軽皇子と雲しより直に受禅したまへり、故に天智天皇と互に辞巽したまひしなり、是本邦譲位の初にて、則ち太子に立てずして位お譲りたまへり、其後、陽成天皇位お光孝天皇に譲りたまふ、是も立太子の事なく、光孝一品式部卿親王にて在しに直に譲位したまへり、中世以後も、応安四年三月廿一日、後円融院に親王宣下ありて、同廿三日後光厳院譲位したまふ、中間唯一日、本より立太子の沙汰なきこと後愚昧記にも明なり、此外も数多あるべけれど急に考挙げ難し、是お以案ずるに、必譲位したまふべき皇子ありて、早くより其叡慮あらば立太子あるべく、叡慮遅く定まりたらば直に譲位ありて、立太子に及ばざると見えたり、然れば明正院の後光明院に譲りたまふも、急なる叡慮にて、立太子は無りしなるべき歟、
  霊元院有立太子之事則不可無東宮宣下之事
霊元院は、立太子の事案記ありて、東宮宣下の事案記なしとあるよし、此事通ぜず、立太子則東宮宣下にて二事に非ず、貞観儀式以下諸次第の立太子の式お見るに、皇子某お太子に立るよしの宣命お群臣へ読聞しむる、是則立太子の儀式なり、強て之お別たば、儀式なくして唯宣下あるお東宮宣下と雲ひ、其宣下お群臣へ露顕する儀式お立太子と雲ん歟、然らば宣下ありて儀式なき事は有る事もあるべし、儀式ありて宣下なきと雲ふ事はあるべからず、立太子の事案記ありて、東宮宣下の事案記なしと雲ふ事義通じ難し、若は其東宮宣下とあるは、儲君宣下の事お混じ雲るにてもあらん歟、〈◯中略〉霊元院は明暦四年正月廿八日立太弟にて、其前に儲君宣下の事見えず、是は東山院、中御門院、当今〈◯桜町〉などの如く、皇考より位お継ぎたまふに非ずして、皇兄後西院の位お嗣ぎたまへれば、先帝の皇弟にして、皇子に非ざるが故に、儲君宣下なかりしなるべし、然れば霊元院立太子の事は案記ありて、儲君宣下の事は案記なきと雲ふ事はあるまじ、
◯按ずるに、本書に古来女帝の立太子いまだ所見あらずとあれど、孝謙天皇は、聖武天皇の皇太子と為り給へり、なほ、皇女為太子の条参看すべし、