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槐記
享保十二年五月廿四日、参候、〈◯中略〉人には咄もならず、咄すべきものもなし、女にかたらんとこのほどより思召す、女もしるごとく、今般親王〈◯桜町〉の御方、東宮立坊の御沙汰ありて、旧殿より戌亥の方へたて出さるヽ筈にてあり、御儀式の、殿どものなくてかなはぬ、寝殿大広間殿上車寄等、忽ち東宮節会に諸卿群列の儀式行はるヽやうに、表向の事は自ら御世話なさらねばならぬになりて、先日より度々御内へも御成あり、関白の第へも御出ありたる事なり、奉行は石井中納言なり、大方儀式の御殿其差図どもは出来ず、内々になりては儀式はいらず、勝手よきやうに女中方よりの好みにまかせておけば、色々の好みども出でヽ、段々に推し出して、表へつまりて肝心の儀殿どもの割になることありて、御差図さだまらず、色々と御難儀に思召す処に、一昨日御参内の刻、石井申されしは、御内々の御差図はすきと相すみぬ、表向は先達て定め置れたる通にて、早速に皆々埒あきぬと申さる、それはいかにと尋しに、このごろ御内々の御差図も大かたにきはまりて、申しの口も二間お一間にし、御納戸もせばきおひろげ、御湯どのもくらきゆえひろげて前に廊下おつけなど致せば、常の御殿の前の仮山草花等お崩さねばならず、ことに御秘蔵の山吹お多く栽られたり、うかヾはずば御気色いかヾなりとて、大乳の人六条など申し上られしに、親王の御方つく〴〵と聞しめして、それはなにゆえにと勅問あり、この度東宮立坊の御沙汰にて候、さあれば御道具どもヽ多くなれば、今ほどにては御せばきゆえ、幸の御次手に、内々の勝手あしき処おも改易せしむるなりと申し上しかば、しばらく御思惟にて仰出されしは、東宮の御渉汰あれば、程なく御位にも御即なさるべし、さあれば父帝〈◯中御門〉の御殿に御移りなさるべし、其上にて父帝の改めらるヽは格別、この御殿はもと新中和門院〈◯桜町母后尚子〉の御座所にて、ことに御内々は常に馴て御住居なりし処なれば、たとひいかほど御不自由なりとも、御勝手あしくとも、東宮にて御座あらんほどは、少しも改むべからずと仰出されしほどに、大乳の人も六条殿も何と申上べき言葉もなく、隻感涙に堪ずして退き、かやう〳〵の思召の上は、勝手方に於ては少しも御好みもなし、表向の御差図のみよく〳〵吟味せられよとありしほどに、数日未決のこと一日にことすみ候と、武家も臣下も世にありがたきことに奉存なり、これより恐ろしげつきて、表向に差図も御覧に入ずば、穴かしこ後悔あるべしとて御覧に入しかば、いざとよ見るに及ぶべからず、中の口までは女御の御方にも常には成せられし処なれば、これお改むるは世にいま〳〵しくこそおぼしめせ、表向のことはともかくも儀の調てよきにはからひ申せ、上よりの思し召は少しもなしと仰出さる、又々何れも肝おひやして感歎し奉る、准后御方にも世に御うれしげに忝くもありがたきことに覚召す、この御心にては後来も御たのもしきことなり、御代の長久、寳祚の御繁栄うたがひなきものかと仰あり、〈両人より女中方おはじめ、拙どももはヾかり多きことながら、落涙とヾめがたし、准后の御心中いかばかり御うれしくも、又女御の御方のいまさば、いかばかりの御孝行におはしまさんものぞとおぼしめすべしと恐察したてまつりて、感涙にてことばなし、〉申上るも恐れあることながら、八歳の宮〈◯後醍醐太子恒良〉の御発明なの、御奇特なりのと申し上ることにはあらず、唯々天のなせる麗質の御徳義より出たることにて、全く才のことにあらずと申上しかば、いかにも女が申条猶なりと仰なり、日本にて八歳の宮の御歌とて、古今まれなることに申すも、外の風流の御歌にあらばこそ、父帝おしたひ参らせてよみたまひしゆえなり、それは又一時の感情より出づとも雲べし、この御ことは一時の感発とも雲がたし、治世の第一と雲べし、母后おしたひます御心も、八歳の宮におとり給はず、 八月十二日参候、仰に、来る十八日には、東宮御方、御本殿へ渡御なるべしと仰出されたり、目出度ことに思しめす、近代なきこと、めづらしき御ことなり、近代は急度御外祖に執柄の家珍らしきことゆえ其沙汰なし、昔御堂殿〈◯藤原道長〉へ東宮の渡御ありしは格別の御ことにて、五十匹の競馬おつがひて御覧に供せられしこと御記録にあり、近代にては後水尾院の応山の桜の御所へ渡御なりしは微々の御ことにて度々なりし、其後は執柄の御外祖たることなき故、この御家にもめづらし、未だ御人衆もしかとは究らず、先刻は治部大輔が来りて、本殿の表替掃除のことなどかくの如く取込の由、東宮お初め奉り、女中公家地下の役人まで、不残御饗応の上御土産お進せられしものあり、小さき御厨子棚ふんだみ金の高まきえあり、上の段に指図お一通り不残そろへて、尉翁お初として小面平太等お並べられたり、香箱へは微塵人形おつめられたり、外に東求院良山御筆の法書の巻、物一巻梅の折枝に付て献ぜらる、これに付てふと仰らるヽは、大事の故実あり教ふべし世に佐理行成道風お三跡と雲、此三跡の字は、本と御堂殿へ渡御の時より初て雲習せしことなり、この時御堂殿の献上、佐理と道風との筆跡の巻物お献ぜられしが、今一巻お行成にかヽせて梅のしもとに付て上られしより、世にこれお三跡と雲しこと御記録にあり、行成の手柄世に面目と雲べし、古の佐理道風にならべて行成にかヽせられしは、行成が手柄なりとのみ御咄ありしが、このたびもこの例お追はるヽなるべしと恐察し奉る、〈◯中略〉又当日は何ぞ外に御なぐさみごとにてもありやと伺ふ、仰に、かねては何ぞとこヽろがけしが、この渡御は私のことに非ず、式正一々天下の取沙汰となるべし、然れば何ごとにもせよ、このことありと風説ありては批判あるべしと思召て止められたり、還御の跡にては伝奏おはじめ所司議奏など参らるべし、この饗応には権之進たち参りてはやしなどあるべきかと仰らる、申も恐あることながら、何のことにもせよ、天下の式となることはこれあるべきことなり、御身のためのみならず、御上の御為にも然るべからず、初ての御こと重てはともかくも此たびはかくあるべきことヽ奉恐察、いつもの拝賀元服などヽはちがひて、殊外に心遣ひなることなり、渡御の間は諸卿お初として末まで不残平折敷なり、還幸の跡の饗応は大臣は大臣、公卿は公卿、殿上人は殿上人と、夫々に膳部おかへて、三寳もあれば足打立もあり、勿論平折敷もあり、夫ゆえ二段になりて、別してやかましきことなりと仰なり、 十九日、昨日渡御御祝儀参候、昨日は随分の御機嫌にて、朝も正辰刻渡御にて、御献上引わたしなど相すみて、乗馬御覧、御方の輿よせの前お馬場とし、竹お渡し叡覧の仮座にむらさきの幕お引、最中に御簾お下し、前の椽がはに高欄おつけて、簾外に准后関白の御座あり、乗馬は左衛門、一角、甚内、新八なり、夫より御庭御覧、御泉水の築山の上には、初葺松葺お多く植られたり、寝殿段上まで御歩行にて還幸、御料理すみて御霊祭御覧、御格子の前二神輿お下し奉幣などあり、還幸の後御出すぐに初更前に還幸のよし、前に記すごとく上へ献上お初めとして、女中下々まで引出物あり、あなたよりも御みやげあり、上お初として諸大夫隠居諸大夫近習青士女中方不残下されものあり、