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神皇正統記
村上
源氏と雲事は、嵯峨の御門世のついえお思しめして、皇子皇孫に姓お給ひて人臣となし給ふ、すなはち御子あまた源氏の姓お給はる、桓武の御子葛原親王の男高棟、平の姓お給はり、平城の御子阿保親王の男行平業平等有原の姓給る事も此後の事なれど、是はたま〳〵の義なり、弘仁以後、代々の御後はみな源の姓お給ひしなり、親王の宣旨お蒙る人は、才不才によらず、国々に封戸など立られて、世のついえなりしかば人臣につらね、官学して朝要にかなひ、器にしたがひ昇進すべき御おきてなるべし、姓お給る人は直に四位に叙す、〈皇子皇孫にとりての事也〉当君のは三位なるべしと雲、〈かヽれども其例まれなり、嵯峨の御子、大納言定卿三位に叙せしかど、是も当代にはあらず、〉かくて代々のあいだ、姓お給ひし人百十余人もや有けん、然れど他流の源氏大臣以上にいたりて、二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなる故ならんとおぼつかなけれ、嵯峨の御子姓お給ひし人二十一人、此中大臣にのぼる人、常の左大臣、〈兼大将〉信の左大臣、融の左大臣、仁明の御子に姓お給る人十三人、大臣にのぼる人、多の右大臣、光の右大臣、〈兼大将〉文徳の御子に姓お給はる人十二人、大臣にのぼる人能有の右大臣、〈兼大将〉清和の御子に姓お給る人十四人、大臣にのぼる人十世の御末に、実朝の右大臣、〈兼大将、是は貞純の親王の苗裔なり、〉陽成の御子に姓お給る人三人、光孝の御子に姓お給る人十五人、宇多の御孫に姓お給りて大臣にのぼる人、雅信の左大臣、重信の左大臣、〈ともに敦実親王の男なり〉醍醐の御子に姓お給はる人二十人、大臣にのぼる人高明の左大臣、〈兼大将〉兼明の左大臣、〈後に親王とす、中務卿に任ず、前中書王これなり、〉此後は皇子の姓お給ふ事はたえにけり、皇孫にはあまたあり、任大臣お本と記すによりてことごとく不載、ちかくは後三条の御孫に有仁の左大臣、〈兼大将、輔仁の親王の男、白河院の御孫、猶子にて直に三位せし人也、〉二世の源氏にて大臣にのぼれり、かやうにたま〳〵大臣にいたりても、いづれか二代とあひつげる、ほとむど納言以上にて伝はれるだに希なり、雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりて残りたる、高明の大臣の後、四代大納言にて有しもはやく絶にき、いかにも故ある事かとおぼえたり、皇胤の貴種より出ぬる人、蔭おたのみいと才などもなく、剰へ人におごり慢する心もあるべきにや、人臣の礼にたがふ事ありぬべし、寛平の御記に其はし見え侍りしなり、後おもよくかヾみさせ給ひけるにこそ、