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折たく柴の記

廿七日〈◯宝永六年正月〉に参し時に、また封事お奉る、其事の大要は、〈◯中略〉当家の神祖、〈◯徳川家康〉天下の事おしろしめされしに及びてこそ、朝家にも絶たるおも継ぎ、廃れしおも興させ給ふ御事共はあるなれ、しかはあれど、儲君の外は、皇子皇女皆々御出家の事においては、今もなほおとろへし代のさまにかはり給はず、凡匹夫匹婦の賤しきも、子お生ては、必らず其室家あらむ事お思ふ、これ天下古今の人の情なり、また今農工商の類だにも、男には其資財おわかち、女には其婚嫁おもとむ、ましてや士より以上、こと〴〵くみなしからざるはなし、かゝる世のならはしとなりて年久しければ、朝家には今まで申させ給ふ御事こそなからめ、此等の御事ねがはせ給ふべき所とも思はれず、たとひ又朝家には申させ給ふ御事こそなからめ、これらの御沙汰なからむ事、上につかふまつらせ給ふ所おつくされしとも申べからず、当時公家の人々、家領のほどもあるなれば、皇子立親王の事おはしまさむにも、いかほどの土地おまいらせらるべき、皇女御下嫁の事おはしまさむにも、いかほどの国財おか費し給ふべき、この国天祖の御後のかくのみおはしまさむに、当家神祖の御末は、常盤堅盤に、栄えおはしまさむ事お望まむは、いかにやはさふらふべき、されど某が申すごとくならむには、これより後代々の皇子皇女、其数多くおはしまさむに至ては、天下の富もつがせ給はぬ所ありぬべしなど申す事も候はん歟、古より皇子皇女数十人おはしませし代々もすくなからねど、それらの御後、今に至り給ふは、いくばくもおはしまさず、天地の間には、大算数といふものゝある也と古の人は申たりき、これ等の事は、人の智力のおし量るべき所にあらず、隻理の当否おこそ論じ申すべけれ、或は又皇子の御後多からむには、つひには武家の御ため、不利の事ども出来ぬべきなど申す事もあるべきにや、高倉宮の令旨によりて、諸国の源氏起りし事もあれど、これは平相国入道のひが事のみ多くして、家滅びぬべき時にあたれるなり、もし此等の事お以て誡とすべきも、高時入道滅びし時に令旨なされしは、梨本の御坊〈◯護良親王〉にはおはしまさずや、さらばたとひ御出家の御身といふとも、それらの事あらじとは申すべからず、これらはたゞ武家御政事の得失にこそかゝり給ふべけれ、すべて此等の事よく〳〵御心せさせ給ふべき所也と申せし也、此封事御覧の後、仰下されし事ふたゝび三たびののち申す所そのことわりあり、されどこれ国家の大計也、よく〳〵御思惟有べしと仰下されしに、やがて今の法皇〈◯東山〉の皇子秀の宮とか申す御事、親王宣旨あるべき由お申させ給ひたりけり、