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天皇の外戚は、上古に在りて固り之お特待せる跡なきにあらずと雖も、未だ其制度の見るべきものあらず、其之あるは蓋し近江朝廷の頃なるべし、然れども当時の制の今に存せざるお以て亦之お知るに由なし、大寳の制より以後、其制と例と昭々として考ふべし、凡そ天皇の外戚たるものは、毎に其官位お進め、三宮に準じて封戸お給ひ、直衣お著するお聴し、台盤所に入るお得しむるのみならず、其病むに及びては度者お賜ひ、諸寺に布施し、神祇に奉幣し、或は天下に大赦し、賑給の令お発し、以て之お救済することあり、其犯罪ある、皇太后の四等以上の親、皇后の三等以上の親も皆六議の恩典に添へり、是れ其生前に於ける待遇なりとす、其没するや天皇為に錫紵お服し、或は帛衣お除き、廃朝の事お行ひ、或は賻物葬儀お賜ひ、贈位贈官の使お発し給ふ等の事あり、而して其猶も貴顕なるものに至りては、警固固関し、為に節会お停廃し、其墓は山陵に準じて墓戸お置き、荷前お進め、天下事ある時には必ず之に告ぐるお以て例とせり、是れ其死後に於て享くる所の待遇なりとす、
外戚が其生前死後に於て享くる所の待遇は、大要此の如し、是より少か其故事に就て陳ぶる所あらんとす、茲に我国家の治乱盛衰の跡お歴覧するに、外戚に関係するもの実に鮮しとせず、神武天皇より十一代にして垂仁天皇の朝に至る、此時始て外甥狭穂彦の反あり、後また二十二代にして崇峻天皇の時、馬子の変あり、馬子は武内宿禰の子、蘇我石川宿禰より出ず、石川四世の孫お稲目と雲ふ、二女お倶に欽明天皇に納れて、用明推古崇峻三天皇の外祖となる、即ち馬子の父なり、馬子の子蝦夷、孫入鹿、相継ぎて大臣と為り、父祖の威烈に藉り、専資お極め、擅に封民お役して大墓お築き、祖廟お建てヽ八佾お舞はしめ、其墓お陵と雲ひ、其家お宮門と呼び、其子お王子と称して、密に不軌お図りしかば、天誅踵お回さずして、竟に中大兄皇子〈天智〉の討伐に遇ひ、一門悉く亡滅に帰せり、而して其密議に参し、大憝お殪し、国家お安んぜしは藤原鎌足の功なり、是お以て其子不比等、文武天皇の朝に当り、薦りに栄達して、天下の枢機お掌り、一門漸く盛なり、其病で臥すや、詔して度者お賜ひ、諸寺に布施し、天下に大赦し、其薨ずるに及ては、太政大臣正一位お贈り、食封資人並に生時の如くせしむ、外戚の為に赦令お発し、贈位贈官及び賜封の挙ある、蓋し之お以て嚆矢とす、時に聖武天皇は皇太子にして、不比等の外孫なり、即位に至り、遂に不比等の女安宿媛お立てヽ皇后とす、古来皇后は多くは之お皇胤に択ぶお以て例とし、大寳の令には、妃も猶之お内親王に取りしが、是に至りて始て臣下の女お採り、皇后に列する例お開けり、是時に当りて、不比等の子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂等、何れも顕要に列したるのみならず、皇后の異父兄、橘諸兄の如きも亦大に登用せられ、大臣の位に昇り、外戚の権甚だ重し、是より藤原氏累世外戚たるの故事お馴致せり、孝謙天皇、藤原皇后の出お以て、聖武天皇の後お継ぎ給ふに及びて、詔して外祖の名お諱み、且つ外家の姓お避けしむ、外戚の威益熾なり、淳仁天皇の朝に至り、終に不比等お近江十二郡に追封して淡海公と称し、其室お以て太夫人と為せり、此時恵美押勝の乱あり、押勝は武智麻呂の子なり、
称徳光仁二天皇の際に当りて、宇合の子百川、輔弼の功あり、女旅子お桓武天皇に納れて、淳和天皇の外祖父となる、桓武天皇其父の故お以て、長子緒継お殿上に召して加冠せしめ給ふ、外戚殿上に於て元服すること、是お以て権輿とす、嵯峨天皇の后橘氏は、諸兄の孫清友の女なり、弟氏公右大臣と為り、橘氏復大に興り、仁明天皇に至り、其氏神も官祠に列せらる、天皇、房前の玄孫冬嗣の女順子お納れて女御と為し給ふ、順子文徳天皇お生む、文徳天皇立ち給ふに及びて、冬嗣の子良房、又女明子お納れて其外舅となり、威権日に重し、天皇の峻厳なる猶之お憚り、長お舎て幼お立て給ふに至る、是お清和天皇とす、良房、文徳天皇の遺詔お奉じて万機お摂せり、摂政の称是に昉まる、即位の元年、始て十陵四墓の制お定む、四墓の列に在るものは、藤氏の祖と外祖父母、及び外祖父の父母とのみ、後増減ありと雖も、要するに外家一門の外お出でず、良房其姪基経お養ひて子とす、又外舅の大臣お以て陽成天皇の朝に摂政となり、後に至りて始て関白となる、後世摂関の職、必ず之お外祖外舅の大臣に取るの例は、良房父子お以て其先従と為す、基経、天皇の失徳あるお以て之お廃して、光孝天皇お迎へ立つ、是実に人臣お以て廃立お擅行する始なり、是より大権全く相門に帰し、威権王家お震す、光孝天皇が基経お臥内に引きて皇太子の事お託し、宇多天皇が阿衡の事お以て自ら責お引き給ひしが如き、以て其一端お窺ふに足るべし、宇多天皇は英主なり、一旦其権お収めんと欲し、菅原道真お挙げて政お輔けしめ給ひしかど、其効なきのみならず、積重の威、愈激して愈盛なり、其経の子時平、亦醍醐天皇の朝に驕る、天皇は高藤の女の産む所にして、高藤は良房の弟良門の子なり、久しく世に沈淪せしが、是に至りて復た盛なり、是お勧修寺家の始祖とす、当時数世の間、皇后お立て給はざりしは、蓋し鑑みる所ありし故なるべし、 朱雀天皇幼冲お以て立ち給ふに至りて、時平の弟忠平また之が摂政となり、嫡子実頼亦冷泉天皇の朝に関白たり、是より先き村上天皇の中宮は実頼の弟師輔の女なり、天皇及び為平守平二親王お生めり、村上天皇殊に為平親王お愛し、冷泉天皇の太子に立てんとし給ひしかど、外家の援なきお以て成らず、村上天皇崩じ給ふに及びて、実頼遺詔と称して守平親王お立て、左大臣源高明お貶竄し、弟師尹お以て之に代へたり、高明、為平親王お以て婿とす、故に廃立の意ありと雲ふお以て讒お蒙りしものにして、醍醐天皇の朝に、菅原道真が、宇多天皇の皇子斉世親王の外舅たるお以て、流謫せられしと同一徹なり、亦以て当時外戚の状態お見るべし、円融天皇の時、外祖九条師輔の子伊尹、伯父実頼に継ぎて摂政となる、凡そ摂関は常置の職にあらざれども、伊尹之に任じてより子弟相続ぎ、永く絶えざるに至れり、兼通兄伊尹に嗣ぎて関白となり、弟兼家と互に女お宮困に納れんと争ひ、従弟頼忠お引きて援とす、頼忠亦兼家と争ふ、兼家花山天皇お賺して、其位お巽れしめ、一条三条二天皇の外祖となり、驕奢日に盛にして、衽お放ちて幼主お抱き、親王お罵る等の事あり、其長子道隆、次子道兼、相継ぎて関白となり、自専愈盛なりしが、三子道長に至りて殆ど其極に達せり、初め道隆の女定子立ちて一条天皇の皇后となり、敦康親王お生みしが、道長又其女彰子お納れて中宮とし、敦成親王お生めり、二后並立すること之お以て始とす、後相沿ひて流例となり、名分大に紊れたり、
三条天皇位お嗣ぎ給ふに及びて、一条天皇、敦康親王お以て皇太子に立て給はんとす、中宮彰子も亦其父道長に勧めて之お立てしめんとす、而るに天皇、道長お憚り、終に敦成親王お立てヽ皇太子とし給ふ、道長又外孫の早く登祚し給はんことお欲し、三条天皇に逼りて譲位せしむ、敦成親王乃ち立ちたまふ、是お後一条天皇とす、時に皇太子は三条天皇の皇子敦明親王なり、道長又己の女の出にあらざるお以て其位お去らしめ、敦良親王お立てヽ後一条天皇の皇太弟とせり、亦道長の外孫なり、是時に当りて道長三天皇の外祖と為り、位人臣お極め、其富天下に冠たり、諸子亦朝に列して、高きは摂関大臣に至り、卑きも納言参議お失はず、百事己の意の如く、一事も欠けざるお以て自ら十五夜の月に比し、此世お以て我世と為すに至る、実に摂関お置きてより以来、未だ富貴満盈なること、道長の如きものはあらざるなり、道長の子頼通亦先人の余風お承けて、驕傲父祖に譲らず、身は三代の執柄となりて、権お専にすること凡そ五十余年なり、而して敦康親王の女嫄子お養ひ、名けて真の所生と為し、是お後朱雀天皇の中宮と為す、亦外戚の権お貪るに過ぎず、而して藤原氏には此徹お踏むもの殊に多し、
後三条天皇は、藤原氏の出にあらざるお以て、儲位に升り給ふも頗る難かりしが、登極に至り甚く藤氏の権お制し給ひしに由り、外家の勢力頓に挫折して、復昔日の如くならず、白河天皇の中宮は、頼通の子なる師実の女にして、実は源顕房の女なり、堀河天皇の朝、顕房外祖お以て栄達し、兄俊房と共に左右の大臣と為り、大将お兼子、子族亦納言衛府弁官等の顕要に列したり、藤氏にあらずして兄弟左右の大臣たるは、此より前に絶えて無き所なり、亦以て世変お観るべし、且つ当時は天下の政、皆院中より出づるお以て、藤原氏益勢力なし、然れども外戚たらんことに汲々たるは猶従前に異ならず、
堀河鳥羽崇徳の三天皇の朝お歴て、近衛天皇に至る、時に頼通の玄孫頼長、父忠実の寵お恃みて、兄忠通と善からず、互に女お養ひて之お後宮に納れんと欲し、父子相陥れ、兄弟交軋り、以て保元の乱お醸し、更に平治の変お歴て、平清盛おして殊勲お樹てしむ、是に於て藤氏は従前の威権お挙げて之お平氏に属せり、清盛も亦藤氏の所為に効ひ、女お納れて高倉天皇の中宮とし、竟に天皇に逼りて外孫なる皇子に譲位せしむ、安徳天皇是なり、清盛愈威権お弄し、跋扈跳梁至らざる所なけれども、多くは功績に矜りしものにて、専ら外戚の親お怙みしにあらず、是より後外戚の王室に於る、大に前日と其観お異にせり、
源頼朝府お鎌倉に開くに及びて、亦藤氏の頻に効ひ、其女お後宮に納れんと欲して成らざりし以来、足利幕府に至る迄、遂に将軍の女お入るヽの事なし、当時は武家天下の政権お掌握せしかば、皇家の外戚も、其力に頼るにあらざれば、全く其勢なし、是お以て鎌倉幕府の頃には、西園寺氏は将家の親お以て、累世帝戚となり、室町将軍の時には、日野氏裏松氏等は、幕府の姻に依りて、盛に其家門お興せり、豊臣氏の時に及びて、近衛氏の女、関白秀吉の養子となりて、後陽成天皇の宮に入りしは、少か其類お異にすと雖も、蓋し亦其力に頼るなり、後水尾天皇の朝、征夷大将軍徳川秀忠、其女お納れて中宮とす、鎌倉幕府より以来、将軍の女にして后位に居るもの前後絶えてあることなし、明正天皇は徳川氏所生の皇女なり、孝謙天皇以後女王お立つるの例久しく絶えたりしが、是に至りて復女帝あり、論者或は以て外戚専横の致す所とす、然れども徳川氏は之お以て権威お加へんとするにはあらずして、之お以て栄とせんとするに過ぎざりしならん、此時代に在りては、復外戚の為に社寺に奉幣布施し、或は度者お賜ひ、赦令お行ふが如き事なし、而して其没するに当りては、忌服廃朝、贈位贈官等の事、猶旧典に拠りて之お行へりと雖も、復固関警固の事なきに至れり、時世の然らしむる所なり、
要するに我皇室の外戚に於ける、之お世界万国に求むるに、終に其比お見ざる所にして、外戚は必ず藤原氏外戚たるにあらざれば、執政たるお得ざるの姿なりしかば、天照大神の御子孫は、長く瑞穂国に君臨し給ひ、天児屋命の後裔は、長く執政の臣と為りて、万世替ることなきは蓋し二神の幽契に起れりと雲ふ説あるに至れり、而して藤原氏は冬嗣より以後房前の子孫常に上流に居り、道長以後其嫡長たる人常に摂関たりしが、鎌倉幕府の時、分れて五派と為り、之お五摂家と称し、互に外戚たりと雖も、其勢益微なり、足利幕府の時、摂家の輩、将軍の偏諱お受くるに至りては、益言ふに足らず、