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栄花物語
三十鶴の林
殿〈◯藤原道長〉の御まへ、〈◯中略〉かくて日ごろにならせ給へば、ほいのさまにてこそはおなじくはとて、阿弥陀堂にわたらせ給、もとの御念誦のまにぞ御しつらひしておはします、〈◯中略〉うち〈◯後一条〉よりも東宮〈◯後朱雀〉よりも、かく今までに見奉らせ給はぬなげきの御消息しきれば、よからん日しておはしまさせ給へかし、たゞ思事は、いとなめげにふしながら御覧ぜん事お思ふなり、さらばよき日してとのたまはす、この月〈◯万寿四年十一月〉廿五日よろしき日なれば、その日行幸の御用意あり、東宮の行啓はおなじ日あるべけれど、心あはたゞしかるべければ、おなじ月の廿八日とさだめさせ給、さてその日になりて、たつのときばかりに行幸あり、昨日御ぐしなどそらせ給て、御けさころもなど奉らせ給て、世のつねの御有さまにて、御脇足におしかゝりておはします、うへいといみじうあはれに見たてまつらせ給て、せきもとゞめずなかせ給ふ、あさましうあらぬひとにほそらせ給へる御ありさま、哀にかなしく心うく見たてまつらせ給、さてなに事おかおぼしめすこととてはあるときこえさせ給へば、いまはこのよにすべて思ふ事候はず、世中におほやけの御うしろみつかうまつりたる人々おほかる中に、あがりてもかばかりさいはひあり、すべき事のかぎりつかうまつりたる人さぶらはず侍、まづはおほやけのおほぢやなどこそはかやうにて候に、まだかゝるおりの行幸候はず、ちゝみかど母ぎさきの御事にこそは候めれ、それすらさしもあらぬたぐひどもあまたさぶらふ、まづちかうは三条院六月にくらいにつかせ給て、十月七日冷泉院の御心ちおもらせ給し、行幸あるべくおほせられしかど、諸卿のさだめに、なほ御ものゝけのいとおそろしうおはしますよし申侍しかば、行幸候はずなりにきなど、いとさはやかに申つゞけさせ給へば、此御心地はちからなげさのいみじきにこそあんめれ、御心ちはゆめにかはらせ給ことなし、あはれやめたてまつらばやとおぼすにいとかなしうて、おぼさんまゝの事の給へと返々申させ給へば、すべて思事候はず、世はじまりてのち(○○○○○○○○)、この行幸こそはためしに候めれ(○○○○○○○○○○○○○○)、これよりほかの事は何事かは、たゞしこの御堂の事つかうまつりつるおのこどもおなんひとつの事おせんと思ひたまへつると申させ給へば、いとやすき事なりとて、関白殿のかみの家司因幡前司ちかたゞおば、よりあきらがかはりに美濃になさせ給、しもの家づかさ左衛門尉ためかたおば、使かけさせ給宣旨くださせ給、また御堂には五百戸の御封よせさせ給宣旨おなじくくだりぬ、とのゝ御まへいみじううれしきおほせなりと返々なく〳〵よろこび申させ給、うへは又なにごとおと覚しめさるれど、又申させ給事なきおくちおしうおぼしめさる、女院の御かたにいらせ給へれば、女院いみじくなかせ給て、とのゝいみじううれしきことによろこびなき給が、かへす〴〵うれしきことゝよろこび申させ給、あはれに心うきこと見給ふなどいみじうなかせ給、中宮さておはしませばおなじさまの御事どもこそは、対面などはとみにえあるまじきにこそなどあはれにかたらひ申させ給、さていととくかへらせ給ぬ、おほやけより此御堂にきぬ三百匹、布千段、誦経におこなはせ給けり、殿の御寿命のための御誦経なりけり、そのほどげに世のためしにしつべく、ふりがたうめでたき御ありさまなり、ひとゝせの御堂供養に、行幸行啓などおぼしあはせられてかへらせ給ぬ、かくて八日に成ぬれば東宮の行啓あり、同じくとのゝ御まへ、一日のやうにさるべきさまにておはします、東宮見奉らせ給にあはれにあさましきまでなかせたまへば、殿もいみじうなかせ給ふ、あべい事ども申させ給て、いみじうなかせ給ふにも、御心のうちに我よにあはせ給はずなりぬる事お、あはれにくちおしうもあるかな、心のほど見えたてまつらんとおもひつる物おとおぼさるゝに、いとかなしう覚しめさるゝなりけり、いまはかく行幸行啓にまかりあひぬれば、いまなんおぼつかなく心とまる事なくて、極楽にも心きよくまいり侍るべきとてもなかせ給へば、いとゞあはれにいみじうみたてまつらせ給ふ、女院の御かたにいらせ給ても、この御事よりほかのことは何事かあらん、さてもとくかへらせ給、しばしもとおもへど、おきい給へるがいとくるしければとの給はせても又なかせ給、とのゝ御まへは今はいと心やすし、けふまで世にはありつるなりとの給はするにつけても、僧俗そこらの人々、なみだおながせどいみじうしのびやかなり、