[p.1560][p.1561]
大日本史
礼楽四
按実録雲、贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓、符宣抄書法亦同、而延喜式書多武岑墓贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣、政事要略以為不比等、其説不合可疑、且鎌足贈位贈官正史無所見、実録書法亦非無疑、拠大織冠伝、鎌足葬山階、公卿補任、帝王編年記、不比等葬椎岡、然皆其火葬地也、意者後人或移葬二人遺骨於多武峯、定為墳墓、而二墓並在同地、故致此異同乎、然朝廷奉幣、必止一墓、而二説不同、竟不知其為誰墓、亦太可異也、今姑拠二書定為鎌足、併挙異同以待後考、
◯按ずるに、鎌足は内大臣大織冠たり、三代実録に、太政大臣正一位とあるは、往時の内大臣の、当時の太政大臣に当り、大織冠の、正一位に当るお以てなり、故に此前後の書に、多く内大臣大織冠と雲へり、太政大臣正一位お贈りしに非ざるお知るべし、天平十三年の銅版詔書に、鎌足不比等の二人お藤原氏前後太政大臣と雲ひ、興福寺縁起に、先正一位太政大臣、後太政大臣と雲へるは、三代実録と同一の筆法なり、多武峯は、鎌足と不比等とお移葬せる地にして、初には荷前に鎌足お祭り、後には改めて不比等お祭りし故に、同一の藤原太政大臣多武峯墓の文にして、三代実録と延喜式と、其人お異にするお致せるか、附して以て他日の参考に備ふ、