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愚管抄

さて文徳の王子にて清和出来給ふ、〈◯中略〉一歳にて東宮にたゝせ給ひけり、九歳にて位に即せ給ひければ、幼主の摂政は日本国にはいまだなければ、漢家の成王の御時の周公旦の例おもちいて、母后のてゝにて、忠仁公良房お初て摂政におかれけり、其後摂政関白といふことは出来たる也、それも始はたゞの内覧の臣に置れて、誠しく摂政の詔下さるゝ事は、七年おへて後、貞観八年八月十九日にて有けるとぞ日記には侍なる、