[p.1574][p.1575]
愚管抄

この九条右丞相師輔の公のいへに、摂籙の臣のつきにけることは、小野宮どの〈◯実頼〉うせ給ひて、九条殿の嫡子、一条摂政伊尹摂籙になりぬ、是は円融院の外舅にて、右大臣にてあれば、九条殿は摂籙せざりしかば、なにとて肩おならべ競べきもなくてかくは侍る也、地体は藤氏長者といふことは、上よりなさるゝ事なし、家の一なる人に次第に、朱器台盤印などおわたし〳〵する事なり、その人また同じく内覧の臣とはなる也、関白摂政といふことは、必しもたえずなる事はあらず、摂政は幼主の時ばかり也、忠仁公の後は、たゞ藤氏長者内覧の臣になりぬるお一人とは申也、内覧もかならずしもなき事也、関白も昭宣公摂政の後に、関白の詔始りけり、漢の宣帝のとき、霍光がまづあづかり聞しめて後に白せよとうけ給はりける例なるべし、小野宮殿の摂政おへずして、関白詔始りけるおばおそれ申されけり、されば廷喜の御時、時平うせ給ひてのちと、天暦の御時には内覧の臣だになく、まして摂政関白といふつかさもなされず、たゞ藤氏長者一のかみにて、廷喜の御時は、貞信公〈◯忠平〉のちにこそ、朱雀院八にて御位なれば、摂政にはならせ給へ、村上には初は貞信公関白如元とてありけれど、うせさせ給ひて後は、左大臣にて小野宮殿こそはたゞ一の上にて事おこなひて、冷泉院の御時直に関白の詔ありければ、時の君の御器量がらにてかつは置るゝ事也、世の末はみな君も昔には似させ給はず、誠の聖王は有がたければ、今は様のごとく摂政関白の名はたゆる事なし、それも御堂のはじめ、一条院三条院、知足院殿〈◯忠実〉のはじめ堀河院、このふたゝびは内覧ばかりにて、関白にはならせたまはざりけり、やさしきことなり、