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愚管抄

鳥羽院践祚の時、御母は実季のむすめなり、東宮大夫公実は外舅にて、摂籙の心ありて、家すでに九条右丞相の家にて候、身大納言にて候、いまだ外祖外舅ならぬ人、践祚にあひて摂籙する事候はず、さ候はぬたび〳〵は、大臣大納言などにその人候はぬ時こそ候へと白川院にせめ申けり、我御身も公成のむすめの腹にて、ひき思召御心やふかゝりけん、思召煩ひて御思案あらんとや思召けん、御前へ人のまいる道お三重までかけまはして、御とのごもりけり、其時今日すでに其日なり、未催なんどもなし、こはいかにとおどろき思ひて、其時の御うしろみ、さうなき院別当にて俊明大納言ありければ、束帯お正しくさうぞきてまいれりける、御前さまの道みなとぢたりければ、こはいかにとてあらゝかに引けるお、うけ給りてかけたる人いできて、かうかうといひければ、世間の大事申さんとて俊明がまいるに、猶かけよと雲仰はいかでかあらん、ただあけよといひければ、皆あけてけり、近くまいりてうちしはぶきければ、誰と問せ給ふに俊明となのりければ、何事ぞと仰ありければ、御受禅の間の事いかに候やらん、日も高くなり候へばうけ給りに参り候、いかゞと申ければ、その事なり、摂政はさればいか成べきぞと仰有て、無左右如本とこそはあるべけれと仰られけるお、たゞ〳〵とさうなく称唯して、やがて束帯さはらとならして立ければ、そのうへおばともかくも仰られず、やがて殿下参りて、例にまかせてとく行はれ候べきよし御気色候と申て、ひし〳〵と行はれにけり、如元とこそはあるべけれども、公実が申やうはなど仰られんと思召けるお、あまりにこはいかにあるべくもなき事かなと、かさとりていかでかさる事候べきと思ひけるにや、九条の右丞相〈◯師転〉の子なれ共、公季思ひもよらで、その子孫実成公成実季と五代までたえはてゝ、ひとへの凡夫にてふるまひて、代々おへて、摂政にはさやうの人のいるべきほどのつかさかは、さる事は又むかしも今もあるべきことならずと、親疎遠近、老少中年、貴賤上下、思ひたることお、いさゝかも思召煩ふは、あさましきことかなと思けるなるべし、さりとて又公実の和漢の才に富て、北野天神の御跡おもつぎ、又知足院殿〈◯忠実〉に人がらやまと魂のまさりて、識者も実資などやうに思はれたらばやはあらんずる、たゞ外舅になりたるばかりにて、まさしき摂籙の子孫にだにへぬ人こそおほかれ、いかに公実もさほどには思ひよりけるにか、又君も思召煩らふべき程の事かはとて、この物語はみそか事にて、うちまかせてよの人のしりてさたする事にては侍らぬなめり、されどせめて一節お思て、家おおこさんと思はんも、我身になりぬれば誠に又大臣大納言の上〓などにて、外祖外舅なる人の摂籙の子孫なるが、執政の臣に用いられぬことは一度もなければ、さほどにも思よりけるにや、あまねき口外にはあらねども、かくこそ申つたへたれ、