[p.1580][p.1581]
愚管抄

九条の右大臣〈◯藤原兼実〉は、文治二年三月十二日につひに摂政の詔、氏の長者と仰下されにけり、去年十二月廿九日より、内覧臣許にて、我も人も何ともなく思てありけるに、かく定りにければ、世の中の人も、げに〴〵しき摂籙の臣こそ出きたれと思へりけり、さて右大臣いはれけるは、治承三年の冬より、いかなるべしとも思ひわかで、仏神に祈りて、摂籙の先途には必ず達すべき告有て、十年の後、けふ待つけつるといはれけり、十六日やがて拝賀せられにけり、其夜ことに雨ふりたりけり、さて後法皇〈◯後白河〉には、心しづかに見参に入てありければ、我はかくなにとなきやうなる身なれど、世おば久く見たり、はゞからずたゞよからんさまにおこなはるべき也など仰有て、おほえの丹後と雲は、浄土寺二位宜陽門院〈◯後白河皇女〉の御母也、出あはせなどして在けり、