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増鏡
五内野の雪
寛元も四年になりぬ、正月廿八日春宮〈◯後深草〉に御位ゆづり申させ給ふ、この御門も又四にぞならせ給ふ、めでたき御ためしどもなれば、行すえもおしはかられ給ふ、光明峯寺殿〈◯道家〉御三郎君、左大臣〈さねつね〉のおとゞ、御とし廿四にて摂政し給ふ、いとめでたし、御あにの福光園院殿、〈◯良実〉もと関白にておはしつる、うらみてしぶ〳〵におはしけれどちからなし、御はらから三人までせつろくしたまへるためし、ふるくは謙徳公、〈伊尹〉忠義公、〈兼通〉東三条大入道殿、〈兼家〉その又御子ども中関白殿、〈◯道隆〉あはた殿、〈◯道兼〉法成寺入道殿、〈◯道長〉これふたゝびなり、ちかくは法性寺殿の御子ども、六条殿、〈もとざね〉松殿、〈もとふさ〉月輪殿、〈兼実〉是ぞやがていまの峯殿〈◯道家〉の御おほぢよ、かやうの事いとたま〳〵あれど、あはた殿もせんじかうぶり給へりしばかりにて、七日にてうせ給ひにしかば、天下執行し給ふにおよばず、松殿の御子もろいへのおとゞ、夢のやうにてしかも一代にてやみたまひにき、いづれも御すえまではおはせざりしに、この三所の御後のみいまにたえず、御ながれ久しきふぢなみにて、たちさかえたまへるこそたぐひなきやんごとなさなめれ、すえのよにもありがたくや侍らん、今の摂政殿おば、のちには円明寺殿〈◯実経〉とぞきこゆめりし、一条殿の御家のはじめなり、摂政にて二とせばかりおはしき、女院〈◯後嵯峨后吉子、〉の御父〈◯藤原実氏〉も太政大臣になりたまひて、手車ゆり給ふ、さるべき事といひながらいとめでたし、