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大鏡
六内大臣道隆
皇后宮〈〇一条后定子〉と同腹の君、〈〇中略〉小千与君〈〇伊周〉とて、彼ほかばらの大千代君〈〇道頼〉にはこよなくひきこし、廿一におはせしときに、内大臣になし奉り給ひて、我〈〇伊周父道隆〉うせ給ひし年、長徳元年の事也、御病おもくなるきはに内に参給ひて、おのれかくまかりなりてさふらふほど、此内大臣伊周のおとゞに、百官并天下執行の宣旨給ふべきよし申くださしめ給ひて我は出家せさせ給ひてしかば、此内大臣殿お関白殿とて、よの人あつまり参りし程に、粟田殿〈〇道兼〉にわたりにしかば、手にすえたる鷹おそらいたらむやうにてなげかせ給ふ、一家にいみじき事におぼしみだれしほどに、そのうつりつるかたも、夢のごとくにてうせ給ひにしかば、いまの入道殿〈〇道長〉その年の五月十一日よりして、よおしろしめしゝかば、彼殿いとゞむとくにおはしましゝ程に、又の年花山院の御事いできて、御官位とられて、隻太宰の権帥になりて、長徳二年四月廿四日にこそはくだり給にしか、御年廿三、いかばかりあはれにかなしかりし事なりな、されどげにかならずかやうの事、我おこたりてながされ給べくもあらず、よろづの事身にあまりぬる人の、もろこしにもこの国にもあるわざにぞ侍なる、むかしは北野〈〇菅原道真〉の御事ぞかしなどいひて、はなうちかむ程もあはれに見ゆ、此殿も御さえ日本にはあまらせ給へりしかば、かゝることもおはしますにこそはべりしか、扠式部卿宮〈〇敦康〉のむまれさせ給へる悦にこそはめしかへされ給へれ、さて大臣になぞらふる宣旨かうぶらせ給ひて、あるき給ひしありさまもいと落居てもおぼえ侍らざりき、〈〇中略〉かゝれどたゞ今は一宮〈〇敦康〉おはしますおたのもしき物におぼし、よの人もさはいへど、したには追従し、おぢ申たりし程に、今の帝〈〇後一条〉東宮〈〇後朱雀〉さしつゞきむまれさせ給へりしかば、よおおぼしくづおれて、月ごろ御病もつかせ給ひて、寛弘七年正月廿九日うせさせ給ひにしぞかし、