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愚管抄

頼長の公、日本第一大学生、和漢の才にとみて腹あしく、よろづにきはどき人也けるが、てゝの殿〈〇藤原忠実〉に最愛也けり、一日摂籙内覧おえばや〴〵とあまりに申されけるお、一日えさせばやとおぼして、子の法性寺殿〈〇頼長兄忠通〉にさも有なんや、後には女が子孫にこそかへさんずれと、たび〳〵ねんごろに申されけるお、法性寺殿のともかくもその御返事お申されざりければ、後にはやすからずおぼして、鳥羽院にこの由お申て、協へかなはずは次の事にて、存候はんやうかへりごとの聞度候、上より仰たびて申状おきかせられ候へと申されければ、この由仰られたりける御返事に、存候むねはとて、年のきは頼長が心ばへはしか〴〵と候也、かれ君の御うしろみになり候はゞ、天下の損じ候ぬべし、このやうお申候はゞ、いよ〳〵腹立れ候はゞ不孝にも候べし、父の申候へばとて承諾し候はゞ世の為不忠になり候ぬべし、仰天して候など申されたりけるおつかはされたりければ、かくも返事はありけるは、など我雲には返事だになきとて、弥ふかく思つゝ、藤氏長者は君のしろしめさぬ事也とて、久安六年九月廿五日に藤原長者おとり返して、東三条におはしまして、左府に朱器台盤わたされにけり、さて院おとかくすかしまいらせられけるほどに、みそかに上卿などもよほして、久安七年正月に内覧はならびたる例もあればとて、内覧の宣旨ばかりくだされにけり、あさましきことかなと一天のあやしみになりぬ、さて上々の御中あしきことは、崇徳院の位におはしましけるに、鳥羽院は長実中納言がむすめおことに最愛に思召て、初は三位せさせておはしましけるお東宮にたて、崇徳の后には法性寺殿のむすめまいられたる、皇嘉門院也、その御子のよしにて、外祖の儀にてよく〳〵さだしまいらせよと仰られければ、ことに心に入て、誠の外祖のほしさに、さだしまいらせけるに、その定にて譲位候べしと申されければ、崇徳院はさ候べしとて、永治元年十二月に御譲位ありける、保延五年八月に東宮〈〇近衛〉にはたゝせ給にけり、その宣命に皇太子とぞあらんずらんと思召けるお、皇太弟とかゝせられけるとき、こはいかにと又崇徳院の御意趣にこもりけり、さて近衛院位にておはしましけるに、当今おとなしくならせ給ひて、頼長の公内覧の臣にて、左大臣一の上にて、節会の内弁きら〳〵とつとめて、御堂のむかしこのもしくて有ける、節会ごとに、主上御帳に出おはします事のなくて、引かうぶりてとのごもり〳〵して、ひとへに違例になりにけり、院よりいかに申させ給ひけるも、きかせおはしまさず、又関白はかど〳〵に成候なんずと返々申されけるおもきかせ給はぬ事にて有ければ、猶これはこの関白がすると思召て、御気色あしかりけり、されど法性寺殿はすこしも是お思ひ居たるけもなくて、備前国ばかりうちしりて、関白内覧おばとゞむる人もなかりければ、出仕うちしておはしけり、〈〇中略〉かやうにてすぐるほどに、この左府、悪左府といふ名お天下の諸人つけたりければ、そのしるしあけくれの事にて有けるに、法勝寺御幸に、実衡中納言が車やぶり、又院第一の寵人家成中納言が家ついふくしたりければ、院の御心にうとみ思召にけり、兄の殿に誠によくいひけるものおと思食ながらさて過けり、〈〇中略〉さる程に主上近衛院十七にて、久寿二年七月にうせ給にけるは、ひとへにこの左府が呪咀なりと人いひけり、院もおぼしめしたりけり、証拠どもゝ有けるにや、かくうせさせ給ぬれば、今は我身は一人内覧になりなんとこそは思はれけんに、例にまかせて大臣内覧の辞表お上たりけるお、返しも給はらで後、次の年正月に、左大臣ばかりはもとのごとしとて有けり、〈〇中略〉主上の御事悲しみながら、例にまかせて雅仁親王新院御所におはしましけるむかへまいらせて、東三条南の町高松殿にて、御譲位の儀めでたく行はれにけり、されば世おしろしめす太上天皇と、摂籙の臣の親の前関白殿ともに、兄お憎みて弟おかたひき給て、かゝる世中の最大事お行はれけるが、世の末のかくなるべき時運もつくりあはせてければ、鳥羽院知足院一御心になりて、しばし天下の有けるお、この巨害のこの世おばかくなしたりける也、されど鳥羽院の御在生までは、まのあたり内乱合戦はなくてやみにけり、