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保元物語

新院御むほんおぼしめしたつ事
新院〈〇崇徳〉日ごろ思召けるは、昔より位おつぎ、ゆづりおうくる事、かならずちやくそんにはよらねども、其うつはものおえらび、外せきのあんふおもたづねらるゝにてこそあれ(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)、是は隻当腹のてうあいといふばかりおもつて、近衛院に位おおしとられて、うらみふかく過しところに、せんてい体仁の親王〈〇近衛〉かくれ給ぬる上は、重仁親王〈〇崇徳皇子〉こそ帝位にそなはり給ふべきに、思ひの外に、又四の宮〈〇後白河〉にこえられぬるこそ口おしけれと御いきどほりありければ、御心のゆかせ給ふ事とては、近習の人々に、いかにせんずるぞと常に御だんがふ有けり、宇治の左大臣頼長と申は、知足院禅閤殿下たゞざねこうの三男にておはします、〈〇中略〉関白殿、〈〇忠通〉と〈〇中略〉御兄弟の上、父子の御けいやくにて、れいぎふかくおはしましけれども、後には御中あしくぞ聞えし、されば左大臣殿思食けるは、一院〈〇鳥羽〉かくれさせ給ひぬ、今新院の一の宮しげひと親王お位につけ奉りて、天下お我まゝにとりおこなはゞやと思ひ立給ひければ、つねに新院へ参り、御殿居有ければ、上皇も此大臣お深く御たのみ有て、おほせあはせらるゝ事ねんごろなり、或夜新院左大臣殿におほせられけるは、〈〇中略〉我身徳行なしといへども、十善のよくんにこたへて、せんてい〈〇鳥羽〉の太子とむまれ、世ぎやうはく也といへども、万ぜうのほう位おかたじけなくす、上皇の尊号につらなるべくは、重仁こそ人かずに入べき処に、文にもあらず武にもあらぬ、四の宮に位おこえられて、父子ともにうれひにしづみ給ふ、しかりといへども、故院おはしましつる程はちからなく、二年の春秋おおくれり、今旧院登遐の後は、我天下おうばゝむ事、何のはゞかりか有べき、定て神慮にもかなひ、人望にもそむかじ物おとおほせられければ、左府もとより此君代おとらせ給はゞ、我身摂籙においてはうたがひなしとよろこびて、もつとも思召立処しかるべしとぞすゝめ申されける、