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源平盛衰記

清盛捕化鳥并一族官位昇進付禿童并王莽事
清盛〈〇中略〉仁安元年任内大臣、兼宣旨并饗祿なかりけれ共、忠義公〈〇藤原兼通〉の例とぞ聞えし、同二年に太政大臣に上る、左右お経ずして此位に至る事、九条大相国信長公の外、総じて先従なし、大将にあらね共、兵仗お賜て随身お召具して執政の人の如し、輦車に乗て宮中お出入す、偏に女御入内の儀式也、太政大臣は訓導之礼重く、儀刑之寄深ければ、地勢大なりといへ共、賢慮不足者、無当其仁、雖天才高、政理不明者、猶非其器、非其人黷べき官にあらざれども、一天の安危由身、万機の理乱在掌ければ不及子細、親子兄弟大国お賜り、兼官重職に任じける上、三品の階級に至るまで、九代の先従お越、角栄けるおゆヽしき事と思し程に、清盛仁安三年十一月十一日、歳五十一にて重病に侵され、為存命忽に出家入道す、法名は静海なり、其験にや宿病立どころに愈て、天命お全す、人の従ひ付事は、吹風の草木お靡すが如く、世の偏く仰ぐ事、降雨の国土お潤に異ならず、されば六波羅殿の御一家の公達と雲てければ、花族も英才も、面お向へ肩お並る人無りけり、太政入道の小舅に、平大納言時忠卿の常の言に、此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被申ける、斯りければ如何なる人も相構て、其一門其ゆかりにむすぼヽれんとぞしける、〈〇中略〉されば烏帽子のためやう、衣紋のかヽりより始て、何事も六波羅様と雲てければ、天下の人皆学之随之けり、如何なる賢王聖主の御政おも、摂政関白の成敗なれども、何となく世にあまされたる徒者なんどの、謗り傾け申事は常の習ぞかし、されども此入道の世の間は、聊も忽緒に申者なかりけり、其故は入道の計ひにて、十四五若は十六七計なる童部の髪お頸の廻に切つヽ、三百人被召仕けり、童にもあらず、法師にもあらず、こは何者の貌やらん、一色に長絹の直垂お著る時は、褐の布袴おきせ、一色に繡物の直垂お著時は、赤袴おきせ、梅の楉の三尺計なるお、手もと白く汰て右に持、鳥お一羽づヽ、鈴付の羽に赤符お付て、左の手にすえさせて、面々にもたせて、明ても暮ても遊行せしむ、是は霊鳥頭のみさき者とて、大会宴の珠童お学れたり、又は耳聞也、もし浄海があたりに意趣あらば、忽緒に雲者あるべし、其者おば聞出して申も上よ、相尋んとの給ければ、京中の条里小路、門々戸々耳お峙、思も思はぬも、其あたりの事お雲おば聞出し申ければ、咎なきあたりおも多く損じけり、最冷くぞ在ける、不祥と雲も愚也、入道殿の禿と雲けれは、京中には又もなき高家の者也、九重白川の在家人多く大事おして、子孫お禿に入ければ、三百人洛中に充満たり、世お趣る馬牛車、宜しき輿車も道およきてぞ通りける、適路次に逢輩は、御幸行幸に参会たる様にて、手おつき腰おかヾめ、走のきてぞ過行ける、禿が申事おば、善悪お糺さず入道許容し給ければ、上下万人是に追従して、善も悪も平家の事おば雲ず、又禿に悪しと思はれたる者は、入道殿に讒せられて、咎なくして多く損ずる者も有けり、