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平家物語

しゝの谷の事
嘉応も三年に成にけり、正月五日の日、主上〈〇高倉〉御げんぶく有て、〈〇中略〉入道相国〈〇平清盛〉の御むすめ、〈〇徳子〉女御に参らせ給ふ、御とし十五さい、法皇〈〇後白河〉御猶子のぎなり、妙音院殿、〈〇藤原師長〉其比はいまだ内大臣の左大将にてまし〳〵けるが、大将おじし申させ給ふ事有けり、ときに徳大寺の大納言じつていの卿、其仁にあひあたり給ふ、又花山の院の中納言兼まさの卿も所もう有、その外故中のみかどの藤中納言家成の卿の三男、新大納言なりちかの卿もひらに申さる、〈〇中略〉其比の叙位ぢもくと申は、院内の御はからひにもあらず、摂政関白の御せいばいにもおよばず、たゞ一向平家のまゝにて有ければ、徳大寺花山の院もなり給はず、入道相国のちやく男小松殿、〈〇重盛〉其時はいまだ大納言の右大将にてまし〳〵けるが、左にうつりて、次男むねもり中納言にておはせしが、すはいのじやうらうおてうおつして、右にくはゝられけるこそ申ばかりもなかりしか、中にも徳大寺殿は一の大納言に花族えいゆう才覚ゆうちやう、けちやくにてまし〳〵けるが、平家の次男むねもりの卿に、かゝいこえられ給ひぬるこそいこんのしだいなれ、定て御出家などもや有んずらんと人々さゝやきあはれけれども、徳大寺殿はしばらく世のならんやうおみんとて、大納言お辞して籠居とぞ聞えし、新大納言なりちかの卿の宣ひけるは、徳大寺花山院にこえられたらんはいかにせん、平家の次男宗もりの卿にかゝいこえられぬるこそいこんのしだいなれ、いかにもして平家おほろぼし、本もうおとげんと宣ひけるこそおそろしけれ、