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源平盛衰記
十六
遷都附将軍塚附司天台事、
治承四年五月廿九日には、都遷あるべき由有其沙汰、〈〇中略〉法皇〈〇後白河〉おば、福原に三間なる板屋お造て、四面に波多板し廻して、南に向て口一つ開たるにぞ居え進らせける、筑紫武士石戸の諸卿種直が子に、佐原の大夫種益奉守護けり、一日に二度、如形供御お進せけり、斯りければ此御所おば、童部は楼の御所とぞ申ける、守護の武士厳しかりければ、輒人も不参、鳥羽殿お出させ給しかば、くつろぐやらんと思召けるに、高倉宮の御謀叛の事出来て、又かくのみ渡らせ給へば、こは如何しつるぞや心憂とぞ思召ける、今は世の事もしろしめし度もなし、花山法皇の御坐けん様に、山山寺々おも修行して、任御心はやとぞ被思召ける、鳥羽殿にてはさすが広かりしかば、慰む御事も有し物お、由なく出にける者哉と思食けるも、責ての御事と哀なり、〈〇中略〉柏原天皇と申は、平家の先祖に御坐す、先祖のさしも執し思召ける都お、他国へ移し給しもnan(おぼつか)なし、此京おば平安城とて、文字には平ら安き城と書り、傍以難捨、就中主上上皇共に平家の外孫にて御坐、君も争か捨させ給べき、是は国々の夷共責上て、平家都に跡おとヾめず、山野に交べき瑞相にやとぞ私語ける、将軍塚の守護神争か可不成恐、隻今世は失なんず心憂事也、平家専もてはやすべき都おや、入道〈〇平清盛〉天下お手に把り、心の儘に振舞給ける余り、当帝お奉下、我孫お位に付進せ、法皇の第二の皇子高倉宮お奉誅、御首お切、太政大臣の官お止て、関白殿〈〇藤原基房〉お奉流、我婿近衛殿お摂政に奉成、総じて卿相雲客北面の下臈に至まで、或は流し、或は死し、自由の悪行数お尽して、今又及遷都けるこそ不思議なれ、守護の仏神凱廩非礼給はんや、