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五代帝王物語
今は院〈〇後堀河〉もわたらせ給はず、主上〈〇四条〉も幼稚におはしませば、外祖にて大殿〈〇藤原道家〉世お行ひ給ふ、将軍頼経卿は御子なれば、武家にもかた〴〵因縁あり、前相国〈公経公〉後院の別当なるうへ、大殿のしうとにて、これも関白一体の人なれば、二人申合て行はれけり、大殿は帝の外祖たるうへ、摂政并征夷将軍の父なれば、世の従ひ恐事、吹風の草木おなびかすよりも速なり、されば山の座主、三井寺の長吏、興福寺の別当、みな御子也、仁和寺の御室は、代々王胤にてこそおはしませども、世お手に握り給うへは、北の政所の腹に、福王御前とて愛子にて御坐おば、御室の弟子に成て、師跡おうけつぎ給き、されば大殿の御葬礼の時も、殿たちよりも上にたちておはしましけるは、父の御素意のとほりなるべし、後は関白の准后〈法助〉と申、法師の准三后の宣旨是が始なるべし、かくて大殿は世お治て目出おはしますほどに、文暦二年〈嘉禎元〉三月廿八日に摂政〈〇道家子教実〉廿六にて俄にうせ給ふ、言ばかりなき事なりしお、やがて大殿又成かへり給ぬ、故摂政おば洞院殿とぞ申し、さて嘉禎三年三月に今の殿の婿の左大臣〈兼経、岡屋殿、〉に摂政譲て、同四年四月廿五日に年四十六にて出家し給、其後も威光は益壮りに御坐しけり、出家の人の参内する事は、御堂の関白、〈〇藤原道長〉平太政入道〈〇平清盛〉などの外は、いたく例もなけれども、車の文には蓮花おして、行粧ゆゝしくて参内し給、