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大鏡
七太政大臣道長
太政大臣道長おとゞ、法興院おとゞ〈〇藤原兼家〉の御五男、御母従四位上行摂津守右京大夫藤原中正朝臣女なり、この朝臣は従二位中納言山蔭の卿七男なり、この道長大臣は、今入道殿下これにおはします、一条院三条院のおぢ、当代〈〇後一条〉東宮〈〇後朱雀〉の御おほぢにておはします、〈〇中略〉この殿は北の政所二所おはします、この宮々の御母うへと申は、土御門左大臣雅信のおとゞの御むすめにおはします、其雅信のおとゞは、亭子のみかど〈〇宇多〉の御子、一品式部卿宮敦実のみこの御子、左大臣時平のおとゞの御むすめばらにむませ給へりし御子なり、其まさのぶのおとゞのむすめお、今の入道殿下の北政所と申なり、そのはらに女君四ところ、おとこ君二ところぞおはします、其御ありさまは隻今のことなれば、みな人見たてまつり給ふらめど、ことばつづけ申さんと也、〈〇中略〉女の御さいはひあるは、この北の政所きはめさせ給へり、御門東宮の御母后とならせ給ふ、あるは御おやよの一の人にておはするには、御子も生れ給はねども后にいさせ給ふめり、女の御さいはひは、后こそきはめておはします御事なめれ、されどそれはいと所せげにおはします、いみじきとみの事あれどおぼろげならねば、えうごかせ給はず、ぢんやいぬれば、女房たはやすくこゝろにまかせてもえつかまつらず、かやうにところせげなり、たゞ人と申せど、御門東宮の御むばにて、三后になずらふ御位にて、千戸のみふえさせ給ふ、年官年爵お給はらせ給ふ、からの御車にていとたはやすく御ありきなども、中々御身やすらかにて、ゆかしうおぼしめしける事は、よの中のものみ、なにの法会やなどあるおりは、御車にても御さじきにてもかならず御らんずめり、うち東宮みや〳〵とわかれ〳〵こそおしくておはしませど、いづかたにもわたりまいらせ給ひてはさしならびおはします、たゞ今三人后東宮女御関白左大臣の御母、みかど東宮はた申さず、おほかたよのおやにて二所ながらさるべき権者にこそおはしますらめ、〈〇中略〉殿の御まへは卅より関白せさせ給ひて、一条院三条院の御時よおまつりごち、わが御心のまゝにておはしましゝに、又当代〈〇後一条〉九にて位につかせ給ひにしかば、御とし五十一にて摂政せさせ給ふとし、わが御身は太政大臣にならせ給ひ、摂政おばいまの関白おとゞ〈〇頼通〉にゆづり奉らせ給ひて、御年五十四にならせ給ふ、寛仁三年つちのとのひつじ三月十八日、夜中ばかりよりむねやませ給ひて、わざとにはおはしまさねど、いかゞおぼしめしけん、俄に廿一日のひつじの時ばかりに〈〇中略〉御出家し給へれど、なほ又おなじ五月八日、准三宮の位にならせ給ひて、年官年爵えさせ給ふ、三人后関白左大臣内大臣、〈〇教通〉あまたの納言〈〇頼宗、能信、長家等、〉の御父、御門東宮の御おほぢにておはします、世おしりたもたせ給ふ事、かくて三十一年ばかりにやならせ給ひぬらむ、今のとしは六十におはしませば、かんのとの〈〇後朱雀后嬉子〉の御さんののちに御賀あるべしとこそ人申めれ、いかにまたさま〴〵おはしまさせてめでたく侍らんずらん、おほかた又よになき事なり、大臣の御むすめ三人后にてさしならべ奉らせ給ふ事、あさましくけうのことなり、もろこしにはむかし三千人の后おはしけれど、それはすぢもたづねで、たゞかたちありときこゆるお、となりの国までえらびいだして、その中にやうきひごときは、あまりときめきすぎてかなしき事あり、王昭君はえびすの王に給りて、胡のくにの人となり上陽人は楊貴妃にそばめられて、御門に見えたてまつらで、春のゆき秋のすぐる事おもしらずして、十六にてまいりて、六十までありけり、かやうなれば三千人のかひなし、わが国にはならの后こそおはすべけれど、代々に四人ぞたて給ふ、この入道殿下のひとつかどばかりこそは、太皇太后宮〈〇一条后彰子〉皇太后宮〈〇三条后妍子〉中宮〈〇後一条后威子〉三所出おはしたれ、まことにけうの御さいはいなり、皇太后宮〈〇藤原済時女、三条后娀子〉一人のみこそはすぢわかれ給へりといへども、それも貞信公〈〇忠平〉の御すえにおはしませば、それよそ人とおもひ申べき事かは、しかあればたゞよのなかは、このとのゝ御ひかりならずといふ事なし、