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愚管抄

清盛が子共重盛宗盛左右大将になりにけり、我身は太政大臣にて、重盛は内大臣左大将にて在ける程に、〈〇中略〉承安元年十二月十四日、この平大相国入道〈〇清盛〉が女〈〇高倉后徳子〉お入内せさせて、やがて同し二年二月十日立后、中宮とてあるに、皇子お生ませまいらせて、いよ〳〵帝の外祖にて世お皆思ふさまにとりてんと思ひけるにや、様々の祈どもして有けるに、先は母の二位〈〇平時子〉日吉に百日いのりけれどしるしもなかりければ、入道雲やう、われが祈るしるしなし、今見給へ、祈出でんと雲て、安芸国厳島おことに信仰したりける上、はや船おつくりて、月詣お福原より初て祈りける、六十日ばかりの後御懐姙と聞えて、治承二年十一月十二日、六波羅にて皇子誕生、思ひの如くありて、思さまに入道帝の外祖になりにけり、