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増鏡
六おりいる雲
春すぎ夏たけ年さりとしきたれば、康元元年にもなりにけり、大きおとゞ〈〇藤原実氏〉の第二の御むすめ、〈〇後深草后公子〉女御にまいり給ふ、女院〈〇後嵯峨后吉子〉も御はらからなれば、すぐし給へる程なれど、〈〇公子時に年二十四、天皇より長ずること十一なり、〉かゝるためしはあまた侍るべし、〈〇中略〉かくてことしはくれぬ、正月〈〇正嘉元年〉いつしか后にたち給ふ、たゞ人の御むすめの、かく后国母にてたちつゞきさぶらひ給へるためしまれにやあらむ、おとゞの御さかえなめり、御子ふたり大臣にておはす〈きんすけ、きんもと、〉とて、大将にも左右にならびておはせしぞかし、これもためしいとあまたは聞えぬ事なるべし、我御身太政大臣にて、ふたりの大将お引ぐして、最勝講なりしかとよ、まいり給へりし御いきほひのめでたさはめづらかなる程にぞ侍りし、后国母の御おや、御門の御おほぢにて、まことにそのうつはものにたりぬと見え給へり、むかし後鳥羽院にさぶらひししもつけの君は、さる世のふるき人にて、おとゞに聞えける、
 藤なみのかげさしならぶみかさ山ひとにこえたる木ずえとぞみる、かへしおとゞ、
 おもひやれみかさの山のふぢの花さきならべつゝみつるこゝろお、かゝる御家のさかえお、身づからもやむごとなしとおぼしつゞけてよみ給ひける、
 はるさめはよもの草木おわかねどもしげきめぐみは我身なりけり、