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愚管抄

九条の右大臣〈〇兼実〉は、〈〇中略〉嫡子の良通大納言大将、〈〇中略〉その妹に女子のまた同じく最愛なるおはしけり、今の宜秋門院〈〇任子〉なり、それお昔の上東門院の例にかなひ、当今〈〇後鳥羽〉御元服ちかきにあり、八にならせ給、十一にて御元服あらんずらんに、是お入内立后せんと思ふ心ふかけれど、法皇〈〇後白河〉も御出家の後なれど、丹後〈〇高階栄子〉が腹に女王おはす、頼朝も女子あんなり、思さまにもかなはじと思て、又この本意とぐまじくば、たゞ出家おこの中陰のはてにしてんと思て、二心なく祈請せさせられけるに、又あらたにとげんずる告の有ければ、思ひのどめて善政とおぼしき事、禁中の公事などおこしつゝ、摂籙の初よりも諸卿に意見めしなどして、記録所殊に執行ひてあり、文治六年正月三日主上御元服なりければ、正月十一日によき日にて、上東門院の例に協て、女の入内思の如くとげられにけり、〈〇中略〉七年〈〇建久〉冬の比、事共出来にけり、摂籙臣九条殿おひこめられ給ひぬ、関白おば近衛殿〈〇基通〉にかへしなして、中宮も内裏お出で給ひぬ、これは何事ぞと雲に、この頼朝が娘お内へまいらせんの心ふかくつきてあるお、通親の大納言と雲人、この御めのとなりし刑部卿三位お妻にして、子ども生せたるおこめ置たりしお、さらに我女まいらせんと雲文かよはしけり、〈〇中略〉同八年七月十四日に、京へまいらすべしと聞えし頼朝が女、久く煩ひてうせにけり、京より実全法師と雲験者くだしたりしも、全しるしなし、頼朝それまでもゆゆしく心きゝて、宜く成たりと披露してのぼせけるが、いまだ京へのぼりつかぬ先にうせぬるよし聞えて、後京へいれりけれは、祈殺して帰りたるにておかしかりけり、〈〇中略〉頼朝この後京の事ども聞て、猶次の女お具して上らんずと聞えて、建久九年はすぐる程に、〈〇中略〉人思ひよらぬほどの事にて、あさましき事出きぬ、同十年〈〇正治元年〉正月に、関東将軍〈〇頼朝〉所労不快とかやほのかに雲し程に、やがて正月十一日出家して、同十三日にうせにけり、