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愚管抄

後京極殿〈〇藤原良経〉は、院〈〇後鳥羽〉もいみじき関白摂政かなとよに御心にかなひて、よき事したりとひしと、思召てありけり、〈〇中略〉摂政は主上〈〇土御門〉御元服にあひて、てゝの殿〈〇兼実〉の例もちかし、又昔の例共もわざとしたらんやうなれば、むすめおほくもちて、能保が婿になりて、いつしかまうけられたりし嫡女〈〇立子〉お、又ならぶ人もなく入内せんとて、院にも申つゝいとなませける程に、卿二位〈〇兼子〉ふかく申むねありけり、大相国〈〇頼実〉もとの妻の腹におのこはなくて、女御代とて、女〈〇麗子〉おもちたりけるお、入内の心ざしふかく、又太政大臣におしなされて、左大臣にかへりなりて、一の上して、如父経宗ならばやと思ひけり、さて卿二位が夫にもよろこびて成にける程に、左大臣の事申けるは、大臣の下登むげにめづらしく、有べき事ならずとおぼしめして、え申得ざりければ、この入内の事お、殿のむすめ参て後はかなふまじ、是まいりて後は、殿のむすめ参らん事は、例も道理もはゞかるまじければ、一日この本意とげばやと、卿二位して殿下に申うけゝり、殿は院〈〇後鳥羽〉に申あはせられけるお、院はこの主上の御事おばとくおろして、東宮にたてゝおはします、修明門院〈〇重子〉の太子〈〇順徳〉お位につけまいらせたらん時、殿のむすめはまいらせよかしと思召けり、人これおしらず、申あはせられける時、いさゝかこの趣などの有けるやらんとぞ人は推知しける、さてさりて頼実の女お入内立后など思のごとくにしてけり、殿はまちざいはいおぼつかなく、当時はうら山しくもやおぼしけん、〈〇中略〉元久三年三月七日、やうもならぬ死にせられにけり、〈〇中略〉さて故摂政の女はいよ〳〵みなし子に成て、よろづ事たがひて、いかにと人も思ひたりけれども、さやうに思召きざして有ける上に、春日大明神も、八幡大菩薩も、かく皇子誕生して、世も治り、又祖父の社稷のみち心に入たるさまは、一定仏神もあはれみてらさせ給ひけんと、人皆思ひたる方のすえとほる事もあるべければにや、承元三年三月十日十八にて、東宮〈〇順徳〉の御息所にまいられにけり、せうとにて、今の左大将〈〇道家〉おとなには遥かにまさりて何事もてゝの殿には過たりとのみ人思ひたれば、めでたくしてまいらせ給にける也、〈〇中略〉承元四年十一月廿五日に受禅の事ありけり、さて東宮のみやす所は、やがて承元五年〈〇建暦元年〉正月廿五日立后あり、