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増鏡
三藤衣
はかなくあけくれて、〈〇中略〉寛喜元年になりぬ、此程は光明峰寺殿〈道家〉又関白にておはす、この御むすめ〈〇竴子〉女御〈〇後堀河〉にまいり給ふ、世中めでたくはなやかなり、これよりさきに三条のおほきおとゞ〈公房〉の姫君〈〇有子〉まいり給ひて、きさきだちあり、いみじう時めき給ひしおおしのけて、前の殿家実の御むすめ、〈〇長子〉いまだおさなくておはするまいり給ひにき、これはいたく御おぼえもなくて、三条后のみや浄土寺とかや引こもりてわたらせ給ふに、御せうそこのみ日に千たびといふばかりかよひなどして、世中すさまじくおぼされながら、さすがに后だちはありつるお、ちゝの殿摂籙かはり給ひて、今の峰殿〈道家、東山殿と申き、〉なりかへり給ひぬれば、又姫君入内ありて、もとの中宮はまかで給ひぬ、めづらしきがまいり給へばとて、などかかうしもあながちならん、もろこしには三千人などもさぶらひ給ひけるとこそつたへきくにも、しな〴〵しからぬ心ちすれど、いかなるにかあらむ、のちにはおの〳〵院号有て、三条殿の后は安喜門院、中のたびまいり給ひし殿の女御は、たかつかさの院とぞ聞えける、今めかしくすみなし給へり、御はらからの姫君もかたちよくおはする、ひきこめがたしとて、内侍のかみになしたてまつり給ふ、おなじき三年七月五日関白おば御太郎教実のおとゞにゆづり聞え給ひて、わが御身は大殿とて、后宮の御おやなれば、思ひなしもやんごとなきに、御子どもさへいみじうさかえ給ふさま、ためしなきほどなり、あづまの将軍、〈〇頼経〉山のざす、〈〇慈源〉三井寺のちやうり、〈〇昭行〉山科寺の別当、〈〇円実〉仁和寺の御室、〈〇法助〉みなこの殿のきんだちにておはすれば、天下はさながらまじる人少う見えたり、