[p.1672][p.1673][p.1674]
勧修寺縁起
閑院贈太政大臣冬嗣のおとゞと申は、大織冠六代の御すえ、大納言真楯卿の御孫、右大臣内麻呂の六男にてぞおはしける、その冬嗣の御子に、内舎人良門と申人おはしけり、昔はやむごとなき人も、うひづかさには、内舎人などにも成給けるなるべし、良門の御子に高藤と申おはしけり、わかくいとけなくおはしける、〈〇中略〉弱冠におはしけるころ、ちかくつかうまつるおのこどもいざなひて、たかゞりにいで給ぬ、みなみ山科のほとりに狩ゆき給に、空のけしきかきくもり、風吹雨などふりければ、しばしは時雨の山めぐりにやと思に、神さへおどろ〳〵しく、いなびかりのかげむくつけかりければ、〈〇中略〉にし山ぎはに人里のみゆるお心ざして、むまにむちうち給ふ、おくゆかしきひがきに萱にてふける門したる家なん有けるに、馬に乗ながらうちいれて、三間ばかりの廊のありけるにおりい給ぬ、〈〇中略〉あるじいとおどろきて、いそぎ内に帰入て、火ともしとりしつらふ、〈〇中略〉日もいたう暮にければ、心ならずよりふしたまひぬ、おくざまなる障子おあけて、とし十四五ばかりにやとみえたる女の、しおん色のふたつぎぬに、こきはかまきたるがあふぎさしかくして、さかづきなどとりてさし置つゝ、うちそばみていたれば、その日のと、さだかならねども、かゝる所にあるべしともみえず、いとなさけありてぞおぼされける、〈〇中略〉なが月のころなりければ、すがのねのながきよすがら、草の枕におく露のまもまどろみたまはず、行すえかけてちぎりおきて、夜もあけゆけば、かくてあるべきならねば、はき給へる大刀お、くちせぬかたみにとゞめおきてたち出給ぬ、〈〇中略〉雁の翅だにもかよはず、露のたまづさのたよりもなくて、年月おぞおくり給ける、〈〇中略〉かやうにてすぐる程に、むなしく歳のむとせにもなりにけり、〈〇中略〉ひとゝせ御ともなりし馬飼のおのこ、〈〇中略〉ちかくめしよせて、ありしかりばのあまやどりはおぼゆるやとのたまふに、わすれ侍らぬよし申に、いとうれしくて、御ともの人などおほからぬさまにて、〈〇中略〉おはしつきぬ、あるじの男心まどひして、いそぎまいりたれば、あるじ、女君はいまだありやといひ給ふに、侍よしきこえて、やがてむかしの棲へみちびきたてまつりつ、枕さだめしねやのかたにおはしたれば、よろづむかしにかはらず、女君は木丁のかたびらにはたかくれていたまへり、〈〇中略〉かたはらに五六ばかりなる女君の、えもいはずうつくしきぞい給へる、たれならんと心えがたくて、いかなる人のなごりにてかととひ給へども、いらへ給事はなくて、いとゞ涙の色はまさり行ば、いとあやしくおぼして、あるじのおとこに、かれはたれにかとたづね給ふに、ひとゝせみえたてまつり給てのち、たゞならずなり給て、いできぬべかなりと申に、このよひとつならぬ御ちぎり、いとあはれにおぼさる、〈〇中略〉この家あるじは、このこほりの大領宮道の弥益となんいひける、こよひもかりのやどりにたびねし給て、むつごともつきなくに明ぬれば、明日となんちぎりて宮こへかへり給ひぬ、あくる日になりにければ、〈〇中略〉都より御むかへにまいれり、八葉の御車に侍二人ばかり雑色などさるべきさまにぞありける、このたびは空だのめにはあらざりけりとはおぼしながら、我身のほどおおぼししりて、行すえいかならんとあやふき心ちし給へども、むなしくかへし給べきならねば、みやこへはくれかゝる程おはからひてぞいで給ける、〈〇中略〉むかへとり給てのちは、かひ〴〵しくもしほのけぶり一すぢになびきて、ことうらにかゝる御心なくてすぐし給ひけり、かくてふたごゝろなくて、年月おおくり給ほどに、うちつゞきおのこ君ふたところいでき給にけり、ありしひと夜のちぎりにいでき給へりし女ぎみは、宇多院の位におはしましける時に入内ありて、皇太后宮胤子と申、皇子いでき給にければ、高藤の公は朝家に又なき権臣にて、内大臣になり給ひにけり、皇子践祚ありて、延喜の聖の御門〈〇醍醐〉とぞ申なる、我朝の賢王におはします、帝祖になり給にければ、うせ給てのちは太政大臣正一位お贈せらる、二人のおのこ君と申は、泉の大将定国、三条右大臣定方これ也、いづれも才卿にて、天下におもき人にてなんおはしける、延喜の聖主ことに律令にあきらかに、格式おさだめ、あめのしたおさまれり、神祇おうやまひ、仏法お崇給事むかしにもこえたりけり、かの南山科の大領の跡おば寺になされけり、今の勧修寺これ也、〈〇中略〉聖主醍醐寺〈〇在山科〉おたてゝ山陵おしめ給事も、この外家のあたりおむつまじくし給けるゆえとぞ、弥益の大領は、四品に叙して宮内大輔にぞなりにける、その正しき跡はいまの二所大明神と申是なり、宮道の明神とも申とかや、今の宮道氏はこの大領のすえにや、まことにめでたかりける御契なり、其跡伽藍となりにければ、延喜の聖代の勅願なるうへに、三条右大臣一堂お建立せられたりける、威風すでになりて、ほどなくかくれ給にければ、朝成朝忠など申御子たち、仏閣の荘厳おそへて、八月ついたちよりおなじき四日、丞相の御忌日にいたるまで南北の碩才おまねきて、一乗八座の講律おはじめおこなはる、〈〇中略〉三公槐門の跡はひさしくたえにたれども、数代蕀路の家いまもすたれず、おほよそ天下の要領在して、七弁にくはゝりて、夕郎貫首おへ、八座につらなりて、朝議の開口にあづかる人、おほくは此家よりぞ出給なる、竜作特進はさだまれる前途なり、亜相の大位にいたり給ふ人も代々にきこえ侍り、大織冠の御すえ、人臣の中にはびこりたまへるうちに、この高藤のおとゞの御ながれひさしく、朝家の要臣たえたまはぬ事おおもふに、曩祖の忠貞のならひなり、これによりて家門の余慶も人にすぐれたるなるべし、