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高橋氏文考註
日竪、日横、陰面、背面は、東南西北の四面の名お、おほらかに称へる古語なり、其は万葉集〈一巻、作者未詳、〉藤原宮御井歌に、〈◯中略〉雲々みえたり、今その大和の国図によりて、国人に質問し、その方位お尋考るに、おほかた香山は東ざまの日縦の御門に向ひ、畝火山は南ざまの日緯の御門に向ひ、耳梨山は北ざまの背友御門に向へる由にて、吉野山は大宮よりは南に当れゝど、名ぐはしき大山にて、西ざまの影友の御門より、斜に遥に見えたるべければ、〈宮所蹟より、大凡五里ばかり隔たれり、〉四面の御門より見渡しのめでたき山々およめる中に配りて、おほらかによみかなへたるものとぞきこえたる、〈西ざまの見わたしにめでたき山はあらずとぞ、さてまた此歌詞に、香山は、大御門爾雲々と繁みさび立りといひ、畝火の山は、大御門爾雲々と山さびいましといひ、梨耳山は大御門爾雲々神さび立りと同じ趣にいひて、吉野山おば大御門従雲井にぞ遠くありけると、別ざまにいへるにも意おつけあぢはふべし、〉さて其四面の名お、然雲ふ由は、まづ朝日の立昇りて、漸に南ざまにおよぶまでの間お、日縦と雲ひ、南ざまより、西ざまに漸に降ち行く間お日横と雲ひ、夕日の降ち陰ろふ西ざまより、北ざまにおよぶ間お陰面といふ、陰つ面の約れるなるべし、〈加茂保憲女集に、かげともに見えたる月おうきくものかくせどふくる身にぞありける、これ西のかたお、陰面といへり、〉北ざまより東ざまの間お外面といふ、いはゆる日横の宣の南ざまに向ひて、背つ面といふが約れるなるべし、万葉集〈二巻人麿〉の歌に、八隅知之すみ吾大王乃わがおほきみ、所聞(きこし)見為(めす)、背友乃国之ともくに真木立たつ不破山越而やまこえ狛剣こまつるぎ和射見原乃みがはら行宮爾かりみやとよめるは、美濃国にて、大和の方より北ざまに当れるおもて、背友乃国といへるなり、〈若狭は、北の極国なるが、その国の北海お受て、子丑の方に向ひたる高山お背面山と雲ひ、海岸お徒に外面と呼びきたれり、こは一所の名とはいへど、其名義同じ、〉さて謂ゆる日縦日横は、成務紀に見えたるお、〈此紀の全文は下に論ふべし〉養老( の)私記〈この書いまだ本書お見ず、水戸家書紀校合御本の首書に注されたるに拠る、〉に、日縦、比乃多都志(ひのたつし)、〈此は、谷川士清が書紀通証にも引り、さて縦字尋常には、たてとよみ、口語にも然雲へど、本語はたつにて、縦横など連ねて、たてよこと第四音に転じても雲ふなるべし、今時にも徒にはたつといふ人あり、和名抄に、釈名雲、縛壁以席縛著於壁也、漢語抄雲、防壁、多豆古毛とあるも縦薦なるべし、〉日横、比乃与古志と見えたるは、古語なるべし、随ふべし、但し書紀印本には、ひたヽし、ひよこしと体言によめり、今この万葉集なる歌詞は、かの私記の古語お体言に、ひたつし、ひよこしとよむべし、〈万葉集十八巻、大伴池立宿禰の歌に、多多佐にも与古佐も雲々とみえ、孝徳紀なる域方九尋の方字お、たヽさ、よこさと訓み、類聚名義抄に、縦字たヽし、またたヽさま、横字およこさま、またよこしまなどよみたれば、ひたヽし、ひよこしとよまむもわろからじ、さてその多都志、与古之、また多々佐、与己佐などいへる、之また佐は、さまといふと同じほどの言づかひと聞ゆ、〉和名抄〈大路の条〉に、唐韻雲、道路南北曰千、〈日本紀私記雲、多都之乃美知、 通本多知之乃美知と作り、いま古本に拠る、成務紀印本には、たヽさのみち、またたたしのみちとよめり、〉東西曰陌〈日本紀私記雲、与古之乃美知、 成務紀印本には、よこさのみちとよめり、〉と見えたるは、道路の縦横にて、四面の方位につきて雲ふ多都志、与古志とは別なり、思ひ混ふべからず、然るに成務紀〈五年九月の条〉に、令諸国雲々、則隔山河而分国県、随千陌以定邑里、因以東西為日縦、南北為日横、山陽曰影面、山陰曰背面と記されたるは、此時始て、日縦日横などいふ四名お設けて、諸国の方位お定たまへるがごとくきこゆれど、それより前代の此詔詞に、日縦日横、陰面背面乃諸国とみえたれば、いと上古よりおほらかに称び来れる四面の名なりけるお、その名によりて、更に国県お分定給ひたりし趣なり、然るに其お東西南北、山陽山陰に当てヽ、曰雲々と記されたるは、漢文の潤飾にひかれて、かへりて当時の名称の実に差いできて、きこえがたき文とはなれるなり、〈山陽は、春秋穀梁伝に、山南為陽、六書故に、山阜之南向日謂之陽、山陰は説文に、陰山北也、注に、水南山北、日所不及也など雲へるごとき義の漢語なるべし、天武紀に、山陽道、山陰道、また東海、東山、山陽、山陰、南海、筑紫とみえたるは、天智天皇の御世に始給へる漢様の令制の名称なるお、古にめぐらして、おほかたに当て、漢文にものせられたるなるべし、此ほかにも然る例多かり、〉さてまた此詔詞に、日竪、日横、陰面、背面乃諸国人乎と詔へるは、天下の諸国の人おと詔へる義にて、いとめでたき古文なり、