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日は、ひと雲ふ、即ち太陽なり、上世の人は殊に日お尊崇するの風あり、又日重出し、或は日光の異状お呈する等お以て変異の事とせり、日月の蝕するお、はえと雲ふ、後世字音お以て称す、凡そ日蝕は、月の朔、二、三の三日間に生じ、月蝕は、十四、十五、十六の三日間に生ずるお以て常とす、而るに史に、六日、十九日等に日蝕あり、九日、二十一日、二十二日、二十五日等に月蝕あるが如く記せしは誤なるべし、抑も日蝕の事お記せるは、推古天皇三十六年の紀お以て始見とす、蝕は陰陽寮にて暦博士暦法に拠りて日時及び蝕の限度等お推歩し、中務省に申し、省は太政官に申す、官奏聞し訖て諸司に告知す、当日天皇事お視ず、百官発務す、正月元日、十一月朔旦冬至等に日蝕あれば、賀節の礼お行はざることあり、中古以来、宿曜道の輩、亦勘文お進るに及び、暦家の奏と抵牾することあり、当時僧侶に命じて、修法読経せしめ、若し蝕正現せざれば修法の験とせり、蝕の間は薦席お以て御所等お覆ひ、又臣庶も他行等お為さずして戒慎せり、而して月蝕の事は月篇に載す、