[p.0027][p.0028]
花径樵話
二天
日色如血
鈴木寄松〈通称米屋平、大坂の人、〉が征途随筆巻之七( に)雲、四月十二日〈天保四癸巳年〉此( の)ひと日二日空の気色常ならず、曇るにもあらず霽るヽにもあらず、終日朦朧として蝕するごとく、夜は月色光彩なく、恰も臙脂おそヽぐに似たり、今朝とく麹町にゆく事ありて、日比谷門外お過ぐ、朝輝応に昇んとして嚇々たり、顧るに日輪朱お施すが如く、しかも光芒の目お射るなし、其異なる、人みなあやしむ、或はこれお天変といふ、其然るや否おしらずとあり、士由〈◯大屋〉雲、此れ東武にてのことなり、果して此年奥羽米穀不登にして、其荒関八州、甲、信、諸越に及ぶ、嘗聞天明三癸卯年正月元日、皆既の日食ありて忽黒暗、毎戸燭お秉る、蓋黒暗の景甚だすさまじく、常に異なりしに、又春初より出没の日色如丹、外にも種々の異ありければ、仙峯院了堅〈奥州安積郡日和田駅の修験、則今の了堅の祖父也、〉預め荒飢の徴なることお知りて、兼て其備ありて、院内人多かりしかど、其愁ひお免かれたりしと、其子了天法印語りき、又天保八酉四月十二日、士由発二本松県城、行福島治下、到郷目村、日既晡後、時見西山落日赤如血、蓋光彩未失矣、又翌十三日在同治下、亦見落暉、則赤如丹、失光似銅矣、又同十四日、尚在同治下、夙起望東方、煙嵐頗深、群峯連岳皆没、不見些子之日光、然東方天、煙嵐悉赭然如赤幔、而到日暮亦復然、雖親不見其日、其色赤果可知耳、〈予客中日録〉