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比古婆衣

月日の蝕おはえといふ由 近き頃となりて、古事しのぶともがら、日月の蝕といふことになれるお、古ははえといへりと心えて、文などにものすめり、されど和名抄にも蝕字の下に和名お載られず、其外古き書どもの訓にも、おさ〳〵見あたらず、たヾ書紀の古訓に、推古三十六年三月丁未朔戊申、日有蝕尽之とある蝕尽お、はえつきたることと訓み、舒明八年正月壬辰朔、日蝕之とある蝕お、はえたりと訓み、〈次に九年三月乙酉朔丙戌、日蝕之とあるところの訓も同じ、〉皇極二年五月乙丑、〈十六日〉月有蝕之とある蝕おも、はえたることとよみ、又天武九年十一月壬申朔、日蝕之とみえたるところには、はえたりと訓り、是ぞ其はえといへる言の書に見えたる始なるべき、さて其蝕おはえと雲へるは、日月の光映の翳る主お忌て、反さまに映(はえ)と雲なしたるにて、死お奈保留、病お夜須美、葦お与志など雲ふと同じ例なるべし、但し映の意ならむには、仮字はえなるべきお、此に挙たる推古紀などにはえと作るかたは誤写にて、天武紀にはえと書事ぞよろしかるべき、〈すべて書紀の仮字は、古の私紀どもに拠れりとみえて、古書のめでたきがあれど、仮字づかひの違ひたるも交れるは、後人の作ひがめたるものなり、其義お考へて訂し用るべきなり、〉さて推古紀なる日有蝕尽之お、はえつきたることありと訓るは、はえお蝕の名として、其はえの残りなく、か主りたる由なり、但しこは字にすがりて訓る詞なれば、よくは当らず、字おはなれては、のこりなくはえたりなど訓むべきなり、或人此説おき主て因に問ふ、天地定位たる後は、今の定のごとく、かならず日月の蝕あるべきお、上世はいまださる理お窺測り知るべきに非ざれば、人皆のいかに怪み畏れたりけむ、そは既くより賢々しく物の理お測りごつ漢人すら、なほ古くは天の変異として畏れたりげにきこえたり、然るに書紀のいと上御代の巻々に、一度も此事お記されずして、推古天皇の御世に及て、載始められたるはいかならむ、答けらく、後世のごとく天学推歩の術明かになりたる上の意のみになりておもへば、いはれたるがごとし、然れど説れたるごとく、天地定位たる後は、かならず蝕ありぬべければ、世々の人皆おのづから見知りおりて、さらに怪しとも畏しともおもふべきにあらず、またことさらに蝕の事おいふ名もなくてぞあり経にけむ、〈上古の人はおほらかなりければ、後の世にあはせては、おのづから詞もすくなくなむ、また無用に物に名つくる事などは、おさ〳〵あるべからず、古意お得て悟るべし、〉今の世にても、いと辺土なるものなどには、然おもひとりてあるも多かめり、其はいづれの国にても、上〈つ〉世には、なべてしかありけむお、漢国にては世お治る謀に天変なりとして、畏れがほに神祭などして、人おおもむけむともしたりけるが、〈漢籍に古く書に記せるは、春秋の始、隠公三年に、二月己巳日有食之と書たるお始にて度々に記せり、其中に文公十五年六月辛丑朔、日有食之、鼔用于社と、書せる下の左氏伝に、日有食之、天子不挙、伐鼔于社、諸侯用幣于社、伐鼔于朝、以昭事神、訓民事君、示有等威、古之道也、〉後に推歩の術もて予て窺測り知る世となりても、猶むかしの例に因准て、史にも書載る例となれりとぞきこえたる、〈漢国にては、後漢の世の末より、日月の蝕お推考る法始りて、漸に精密くなれりとぞ、〉皇国にても推古天皇の紀より始て、日蝕おおり〳〵載られたるは、此御代より始て、漢国の暦お用ひ給ひけるによりて、かねて蝕おも推考て、かの国風おまねびて、書記(と)め置つるふみの遺りたりけるお、彼国の史に例ひてものせられたるなるべし、〈◯中略〉そもそも日月の蝕お忌む事は、もとより古伝にあらず、何の故実もなきいとはかなきならはしなるものから、その光の翳る主お見て忌々しげにおもはる主も、なべての人の真情なれば、おほかたの世のならひのま主に、事によりてはその日其夜お避て、ものするもよかるべきなり、