[p.0081]
新蘆面命
貞享二年乙丑五月甲戌望、丑の初刻に虧初む、これ改暦より初ての食也、此時水戸殿の天文者、川勝六右衛門と雲者、難じて曰、此食授時暦に初虧子の四刻なり、然るに新暦には丑の一刻初虧と付たり、扠々おかしき事かな、我等算哲に問候へば、里差お加へ申候はヾ、此後十一月十五日の食、授時と刻限合候はいかヾ、〈十一月望の食、授時の刻と貞享と同じ、故にしかいへり、〉其実は、算哲事、授時からが得とゆかぬと見え候など、甚悪口申候、其夜中山大納言篤親卿の所にて、祈禱有之、出雲路玄仙と彼川勝其外大勢参り候、川勝衆中に向ひて申候は、今夜の食にて、新暦の合候哉御覧候へ、授時の食は子刻也と申す、さて九つの鐘打候へば、いづれも庭上へ御出なされ候へとて、出でゝ窺ひ見候へども不食、九つ半までは子の刻なれば、御覧候へと申候へども、中々不食候故、あまりに笑止になりて、一人はづし、二人はづしにげ申候、其後漸々八つ打申候時初虧申候、これお無念に存じ、六右衛門は其後老病と号し、暦算お止め申候、