[p.0131]
嘉永明治年間録

文久元年五月廿日、彗星乾方に出づ、天文方建白書、此頃毎宵乾方彗星出現に付、天文方上書写、 彗星は西説に寄候へば、一種の行道の違ひし星にて、限りも無き遠天より、太陽天へ環り来り並び、遠天へ還り候星に有之、太陽天へ近づき候節は、自然地へも近く相成候事故、人目に見え、遠天へ還り候得ば地に遠く相成候故、人目に及不申候、其行道皆長象形にして、各長短不同故、再出の年間遠きは八九年、其最近き者は、三ヶ年余にて、再出の年間一周仕候ものも有之候、右様数年来測量仕り、予め再出の時節お推歩致候程に相成候上は、決て妖星と申には無之、一種の奇星と可申程の儀に御座候、漢土にては兎角吉凶の点候有之、多くは旧きお除き、新お布く抔申候へば、其形容箒に似寄候お以て、支那人の文お巧みに認め候様に存候、当今専ら西洋究理の説御採用の折柄に付、私共於御役筋にも、吉凶の有無の儀は差置、ひたすら測量にのみ必志お尽し罷在候、且又其色に随ひ、其現るヽ場所より、兵革水火の災、或は国王大臣の患抔と漢説に相見候得共、明和六年七月の彗星は、其長さ七十度に余り、光芒は両脇へ相見候由、旧記に相見、至て異様の形状に候得共、別に奇異と申程の儀も無之由申伝候、殊に彗星の天際に現れ候は、日本計に相見候には無之、万国共に見受候事故、素より何れの国、誰の人事と、吉凶に拘り候儀は、毛頭有之間敷候事、