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続世継
四小野の御幸
三君〈◯藤原教通女歓子〉は後冷泉院の女御にまいりて、きさきにたち給て、皇后宮と申き、のちに皇太后宮にあがりて、承保元年の秋、みぐしおろし給てき、猶きさきの位にて、ひえの山のふもと、おのといふさとにこもりいさせ給て、みやこのほかに、おこなひすまし給へりき、雪おもしろくつもりたるあしたに、白河院にみゆきなどもやあらんと思て、ある殿上人、馬ひかせてまいり給へりけるに、院いとおもしろき雪かなと、おほせられて、雪御覧ぜんとおもほしめしたりけるに、馬ぐしてまいりたる、いみじくかんぜさせ給て、御随身のまいりたりける、ひとり御ともにて、にはかに御幸有けるに、北山のかたざまに、わたらせ給ければ、その御随身ふと思よりて、もしおののきさきの、山ずみし給などへや、わたらせ給はんずらんと思えて、かの宮にまうでつかうまつるものにやはべりけん、にはかにしのびて、みゆきのけさ侍、そなたざまにわたらせ給、もしその御わたりなどへや侍らんずらんと、つげきこえければ、かの入道のみや、その御よういありて、法華堂に三昧経しづやかによませさせ給て、庭のうへいさヽか人のあとふみなどもせず、うちいで十具ばかり有けるお、なかよりきりて、そで廿いださんよういありけるお、もしいりて御らんずることも侍らん、いと見ぐるしくやと、女房申けれど、きりていだし給けるに、すでにわたらせ給て、はしがくしのまに、御車たてさせ給て、かくとやはべりけん、さやうに侍けるほどに、かざみきたるわらは二人、ひとりはしろがねのてうしに、みきいれてもてまいり、いま一人はしろがねのおしきに、こがねのさかづきすえて、大かうじ御さかなにていだし給へりければ、御ともの殿上人、とりてまいりて、いとめづらしき御よういにはべりけり、かへらせ給てのち、かしこくうちお御覧ぜで、かへらせ給ぬなど、ごたち申ければ、雪見にわたり給て、入給人やはあるとぞのたまはせける、月お雪ともきこえはべり、さて院より御つかひありて、いとこヽろぐるしく思やりたてまつるに、うちいでなどこそよういして、有がたくもたせ給へりけれとて、みののくにとかや御庄の券奉らせ給へりければ、まいりつかうまつる、おとこおんな、これかれのぞみけれど、みゆきつげきこえける随身に、あづけたまひけるとぞきヽ侍し、そのとねりの名はのぶさだとかや、殿上人はなにがしの弁とかや、たしかにもきヽ侍ざりき、〈◯又見古今著聞集〉