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太平記
十七
北国下向勢凍死事
同十一日〈◯延元元年十月〉に、義貞朝臣七千余騎にて、塩津海津に著給ふ、七里半の山中おば、越前の守護尾張守高経、大勢にて差塞たりと聞へしかば、是より道お替て、木( の)目峠おぞ越給ひける、北国の習に、十月の初より、高き峯々に雪降て、麓の時雨止時なし、今年は例よりも陰寒早くして、風紛(まじり)に降る山路の雪、甲冑に洒ぎ、鎧の袖お翻して、面お撲こと烈しかりければ、士卒寒谷に道お失ひ、暮山に宿無して、木の下岩の陰にしヾまりふす、適、火お求得たる人は、弓矢お折焼て薪とし、未友お不離者は、互に抱付て身お暖む、元より薄衣なる人、飼事無りし馬共、此や彼に凍死て、行人道お不去敢、彼叫喚大叫喚の声耳に満て、紅蓮れん大紅蓮の苦み眼に遮る、今だにかヽりけり、後の世お思遣るこそ悲しけれ、河野、土居、得能は三百騎にて、後陣に打けるが、天の曲にて、前陣の勢に追殿(おく)れ、行べき道お失に、塩津の北におり居たり、佐々木の一族と熊谷と、取籠て討んとしける間、相かヽりに懸て皆差違へんとしけれども、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指お墜して弓お不控得、太刀のつかおも拳(にぎり)得ざりける間、腰の刀お土につかへ、うつふしに貫かれてこそ死にけれ、