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閑散余録

蜃気の楼台おなすこと、和名おながふといへり、長門の海中にまヽありと聞り、吾州の伊勢の海も、昔より其名あり、二三月の頃、天気暖和にして、風浪なき日に多くあらはるヽなり、これ蛤蜊の気なりといひ伝へ、然れども蜃と蛤蜊と同く介類にして別あり、ことに桑名は蛤蜊に名お得たる地なれども、ながふの見ゆることお聞ず、但羽津楠邑等の海辺に多し、吾友に楠邑の南川といへる里に、山本勘右衛門といへる老翁あり、この人は弱年の時より両度見たり、後に見たるは楼閣の中に、種々の飾りありて、甚奇巧なりしと物語せり、羽津楠などにも蛤出れども、桑名にくらぶれば寡し、然れば蛤の気にてなれるにはあらざるべし、楠の南一里ばかりに郷あり、其名お長太と書て、なかふと訓ぜり、蜃気に因て名づけたるなるべし、天地の間には理外の事多し、虹の日に映じて青紫の色おなすが如く、海中の春和の気日に映じて、色お現ずるなるべけれども、楼閣の形象おなすはあやしむべし、