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東遊記

唇気楼 唐土の詩文にも、多く作りてもてはやせる、唇楼といふことあり、又海市ともいふ、〈◯中略〉我国は四方皆大海にて、何れの国の人も海お見ざる者もなきに、此唇気楼は甚希なり、隻越中の魚津といふ所に、毎年三月の末より四月の間に、天気殊にのどやかにして風収り、海上霞渡りて、一面の鏡の打曇れるがごとき日に、此唇気楼おむすぶ、毎年一両度、或は多き年は、三四度も結ぶ事あり、殊に唐土の人のいへる如く、海上に煙の如く雲の如く、次第にむすび来りて、遂には楼台の如く、或は城廓の如く、人馬往来せるが如きも、歴々然として見ゆ、北地に我親しく交りし、宮島式部大夫と雲社人は、折よく魚津にて是お見たり、初は幕お引るが如くなりしが、しばらく見る間に、城廓の如く、矢倉高塀やうのものも見え、矢間などの如きものも見えしが、又暫する間に、松原の如く、絵に書る天の橋立などのやうに見えし、夕暮に及び風少し出たれば、漸々に消失て跡かたもなくなりしなり、富山よりは才に六里お隔てたる所なれば、城下の人々皆見物したく思へども、何時に結ぶもしれがたく、又むすびたる時、急に人して告しらすにも、其間には消失て見るべからず、此ゆえに魚津近所の海辺の人は、例年見る事なれど、二三里お隔てたる地方の人は、一生涯つひに見ざる人多し、余〈◯橘南谿〉が越中にありし時も、三四月の間お魚津に逗留して、唇楼お見るべしと、人々にすヽめられ、余も亦年頃の望なりしかど、富山にありし頃は正月二月なれば、それより三四月まで越中に逗留せん事、あまり永々しければ、残念なりしかども、見ずして越後にこえたり、越後の糸魚川にて、松山茂叔に此事お語りしに、此人も糸魚川の海中遥に山の出来たるお見たり、漁人のいひしは、これは塩山といふものにて、折々見ることなりといひしと語られき、余初め唐人の作れる詩抔お見て思ひしは、唇楼は大洋にある事にて、陸地近き入り海には、なきことのやうに心得しが、魚津の地理お見るに左にはあらず、魚津は北海に臨める地なるに、向ふの方七八里と思ふ程に、能登国の山お屏風の如くに見る、魚津の海は東よりの入海なり、海中より蒸登る陽気、向ふの山に映じて、色々の形お見るなり、向ふに当なく、数百千里見はらしたる大海にては、陽気のぼるといへども、向ふの当無れば映ずることなくして、人の目に見えがたしとぞ覚ゆ、伊勢の桑名の海にも三十年五十年の内には、たま〳〵唇楼お結ぶ事ありといふ、是も向ふに尾張三河の山お受てあるゆえなるべし、又安芸国にてもたま〳〵は有りと雲、是も向ふに山あり、其外の国にては唇気楼おむすぶ事はまだきかず、奇お好む人は、三四月の頃、越中に遊びて此楼台お見るべき事なり、