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甲子夜話
七十七
武蔵野の逃水は、古より名高きことなり、然れども常にあるにあらず、其地の人も見ること甚希なり、固より水にはあらざるなり、時ありて広原お遥に望めば、波浪の起るに似て色五彩おまじへ、其中に人物舟船の行くが如く、妨仏として影の如く画の如し、漸其処までいたり視れば、あるところなく、又向に見ゆることはじめの如く、移時乃滅す、水の流るヽに似て定る所なく逸失すれば、逃水と名づけしなり、清暑筆談曰、広野陽炎望之如波涛、奔馬及海中蜃気為楼台人物之状、此皆天地之気、絪縕蕩潏、回薄変幻、何往不有周処、風土記亦同此説、唐陸勲志怪水影と雲も亦同、右二説已載経史摘語、この説の如く気なり、蜃気楼と雲に同じ、海上にあるお海市と雲、山中にあるお山市と雲、原野にあるお地市と雲、池北偶談に見えたり、武蔵野の逃水は地市也、