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紀長谷雄物語
中納言長谷雄卿は、学九流にわたり、芸百家に通じ、世におもくせられし人なり、或日ゆふぐれがたに、内へまいらんとせられける時、見もしらぬおとこのまなこいかしこげにて、たゞ人ともおぼえぬ来て雲、つれ〴〵に侍ば、双六おうたばやと思給に、そのかたきおそらくは、君ばかりこそおはせめとおもひよりて、まいりつるなりといへば、中納言あやしうおもひながら、心みむと思ふ心ふかくて、いと興あることや、いづくにてうつべきぞといへば、これにてはあしく侍ぬべし、わがいたる所へおはしませといへば、さらなりとて、ものにものらず、とものものおもぐせず、たゞひとりおとこにしたがひてゆくに、朱雀門のもとにいたりぬ、此門の上へのぼり給へといふ、いかにものぼりぬべくもおぼえねど、男のたすけにてやすくのぼりぬ、すなはちばむてうどとりむかへて、かけものにはなにおかし侍べき、われまけたてまつりなば、君の御心に、みめも、すがたも、心ばへも、たらぬところなく、おぼさむさまならむ女おたてまつるべし、君まけ給なばいかにといへば、我身にもちともちたらんたからお、さながらたてまつるべしといへば、しかるべしとてうちける程に、中納言たゞかちにかちければ、男しばしこそよのつねの人のすがたにてありけれ、まくるにしたがひてさいおかき、心おくたきける程に、もとのすがたあらはれて、おそろしげなる鬼のかたちになりにけり、おそろしとおもひけれどもさもあれ、かちだにしなば、かれはねずみにてこそあらめとねむじてうちける程に、ついに中納言かちはてにけり、