[p.0045][p.0046]
古今要覧稿
遊戯
ご〈囲碁〉
囲碁は、尭造之とも、又俊造之とも〈和名抄〉見えて、両説一定しがたし、皇国へ伝来せしことは、いつの比といふこと詳ならず、今に碁琴不制限とあり、是ものに見えたるはじめにて、続紀聖武天皇天平十年紀に、大伴子虫中臣東人と碁お囲みし事見えたり、吉備の大臣入唐して帰朝のみぎり伝へられし由、あまねくいへども、正しき書に見えたることなし、たゞこの大臣の入唐の絵詞に、大臣碁おしり給はずして、かの地にておぼえられたるよし見えたれども、此絵詞ははるかに後のものにて証となしがたし、貝原好古が和事始に、右の伝へは全く俗説にて、取るにたらずとのみいひて、伝来の考は何とも見えず、思ふに吉備の大臣の入唐は、元正天皇の霊亀二年にて、帰朝は聖武天皇の天平七年なれば、在唐二十年なり、吉備公秀才経史お研窮し、群芸お学び得て、碁双六も此時より伝来せしならんとおもふもうべなれど、これよりさき文武天皇の元年に、禁博戯遊手徒其居停、主亦与居同罪と〈続日本紀〉見えたるなどおもひわたすに、文武天皇の元年は、吉備公帰朝の年に先立つ事三十九年なり、此時既に双六樗蒲の類ははやく渡りて、流行甚しかりしと見えたり、しかれば双六樗蒲の類のみ渡りて、碁のみおくれて渡りこしものともおもはれず、かつ碁は令に不制限と見えたれば、此時の停止には猶もれておこなはれしものならんか、其よしは元明天皇の和銅四年、太安麻呂奉勅て古事記お撰し時、稗田阿礼が口づからいふことお、一言もたがへず書き移されたるよし序に見えたる、かの記の神代の段に、於乃碁呂島と碁字お古の仮名にかりもちひられたるお見れば、其比専ら流行して行はれたるものならんか、さあらではふと書出る仮字に、耳遠き字お用ふべきことかは、しかれど字は早く渡りて、物の渡りこざりしものも有りぬべければ、字さへ渡りてしりたらんには、書出ぬことやはあるともいふべけれど、吉備公の入唐の絵詞に見えたる如く、かの地にて碁といふものは何物ぞといふやうにとはるゝばかりしれざるものゝ、文字のたとへ渡りいたらんにも、ふとにはかにおもひ出て、物もしれざる耳遠き字お書くべき事かは、かの記中、右の外にも見えたる所あり、とにかく吉備の大臣の入唐以前に渡りし事しられたり、たゞし吉備公帰朝ありしよりして、碁譜口訣等も伝はりて上達せしことは、この頃よりやさかんなりけん、吉備公入唐は玄宗の時なれば、西土もこの道に高手のもの多かりし時とおもはる、さて此後よりして天下さかんにおこなはれ、囲碁の沙汰くはしくなりもて来れるが故に、吉備公の伝来のやうにふといひ出たるものならんか、又ある人の考に、囲碁の伝来は、恐らくは朝鮮よりならんか、其故は吉備公入唐は、玄宗の開元四年なり、朝鮮史略に、国人善碁詔、以参軍楊季鷹為副璹、到国献道徳経とあるなど思ふに、朝鮮ははやくより碁お能するもの多くありしと見えたり、此時西土にても楊季鷹お遣はして、学ばせしものならむとおもはる、とにかく朝鮮は皇国に通ぜしは、崇神天皇の御時より渡り初めて、西土の来聘よりははるかに以前なり、殊に百済より王仁の類ひ来りて経書わたり、又三十代欽明天皇の御代に仏経渡り、すべて西土より先に種々の物お渡し来さしめしものならんかといへり、此説によるべきにや、とにかく吉備公の帰朝まへに渡りし事は正しくしられたり、