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慶長見聞集

仙栄碁ずきの事
むかし我知人なりし真野仙楽斎は、関東にて碁の上手といはれしが、よの事はかたくなにゆくりなき人にて候ひし、又伊豆国下田と雲在所に、山田と雲者あり、此の者万にたらざりけるゆへ、皆人ばか山田と名およべば、なにぞとこたへて腹立る事おしらず、されども碁おばよくうちたり、先年北条氏直公、在世の時分、其のばか山田、用所有てや、折々小田原へ来り、舟方村に宿有しに、其頃小田原に武与左衛門、須衛木斎藤などゝいひて、碁よく打者共あり、ばか山田にたがひせんの碁、いづれも真野には三つ四つの碁なり、これらの人、やれ下田のいくぢなしのばか山田の、舟かた村へ来り居ると雲ぞ、急ぎつれてこよ、来まじきと雲とも頭おもたげさすな、首に縄お付て引て来よとて、つれよせ集て打けれども、終に碁には打負ずと語れば、人聞て、孔子のたまはく、狂にして直ならず、侗にして願ならず、悾々として信ならず、吾是お知らずと雲々、此の三つは、惡くとも又とりえ有所あらば、せめての事なり、若さもなくば、何のやうにもたゝぬ捨者、孔子も如何共すべきやうなしと雲々、此の山田は、碁お打一道のとりえあり、笑ふべからずといへち、彼の馬鹿山田、今江戸へ来り、石町の六郎右衛門が処に有て入道し、仙栄と名付たり、今の上手には二つの碁なり、此の者碁ずきにて、あひておきらはず、夜る昼るわかで打けり、或時仙栄碁打所へ、兄の六郎左衛門、病死唯今成べし、急来れとつぐる、仙栄聞て、此の碁打はたさずして、兄の死めにいかであはんやといふ間に、死たりとわらへば、人聞て、物にすき、勝負おあらそふには、賢愚によらず、むかしもさる事あり、〈○中略〉仙栄も後は如何なる者になり、如何様なる金言おいひのこさんもしらずといふ、或時仙栄鼻紙お十帖、慈悲なる人より得たりとて、持てあるき人に見せ、鼻紙かけに碁お打べしといふ、我も人も是がおかしさによび入、人集て四つ五つせいもくおき、鼻紙かけにうたんとて、手お見石おつきよせ、集て助言おいひ、ともかくもして打勝て、ばか仙栄おわらはんとせしかども、碁にはかしこくして却て紙おとられ、こなたがばかに成し事の無念さよといへば、仙栄聞て、いや方々は勝べきと思ふ故にまくる、我はまけじと用心する故に勝、各々の宝おたくはへ給ふも、得失の心得は、わが碁打に定て同じ事成べし、得おばおごる事なくして、わざはひの来らん事おつゝしむ、失およくつゝしめば、必得来るべしといふ、げいは道によて賢とかや、