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本因坊家略紀

本因坊算砂〈出生京都〉
天正の頃、京都に本因坊と雲僧有、碁将棊共に能す、其頃本因坊に及ぶ碁将棊なし、信長及聞之、呼出し棊お玩ぶ、信長本能寺逗留の節、本因坊も本能寺へ参り夜詰す、夜九つ過夜詰お引、本能寺お出、三四町過しと覚しき時分、物さわがしき声聞ゆ、明智光秀本能寺お囲む、信長生害なり、夫より太閤へ被呼出棊有之、〈○中略〉此時分より権現様へ御出入申上る、権現様にも本因坊に五宛にて被遊候となり、此時分本因坊にせり合の相手は、古算哲、林利玄、中村道碩なり、道碩は本因坊弟子也、林利玄は権現様御側坊主にて、御譜代の家なり、林門入の元祖なり、ある時本因坊と利玄とに碁お為打被遊御覧候、利玄二番つゞけて負なり、権現様上意に、利玄今日は殊外不出来に見ゆると上意有時、利玄此間久々碁不仕候故、仕にくきと申上る時、又上意に、其方は何お家業に致候哉と上意有しと也、其後本因坊義別段権現様へ被召出、此時寂光寺といふ寺一本寺に奉願、則被仰付、弐拾九石之御朱印被下置、寺は京都寺町にあり、日蓮宗也、寺役は兼帯にて別僧勤、棊は本因坊勤る、其後又別段本因坊へ現米五拾石拾人扶持被下置、弐拾九石之御朱印の分は寺へ附る、〈○中略〉算砂は禁裏へも昇殿致し棊被仰付、其節法印に被成下、右大弁よりの宛所にて御墨付頂戴仕、本因坊家に在、其節長柄傘御免、乗物下乗まで御免なり、今に本因坊計は下乗まで乗物御免なり、御入国の始め、日本橋にて一町ほど屋敷お被下、其時分は草原にて囲にこまり、右の屋敷差上申候由、利玄も鉄砲町にて一町ほど屋敷お被下、是も同く差上候也、何〈茂〉上方住居ゆへ、古来よりの格にて、現米三拾石は今に伏見の御城にて被下之、拾人扶持計江戸御蔵にて被下、算砂時分よりの今に格なり、偖大橋宗桂といふ者出、将棊お能致すにより、此時将棊お宗桂に譲り、算砂は棊計になる、〈○中略〉扠算砂病気づき候故、中村道碩に棊所お譲り、元和四年五月十六日に死す、法名日海、