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因雲碁話

和田義盛説工藤祐経計和話
碁所の始祖本因坊算砂、法印日海、豊臣太閤の御時、天下の上手ども数輩と、試みの碁、手合せ仰せ付られ候処、本因坊諸人に勝越候に付、はじめて碁所に仰せ付られ、手合已下の法度申付べき旨、御朱印御証文成し下さる、時に御加恩等拝領す、天正十六年閏五月十八日なり、御証文に閏五の日月お記して年号なし、秀吉公治世中の閏月お撿するに、文禄二年なり、思ふに此の時朝鮮の役和して、無事閑暇の日なれば、果してこのときと考へ定めぬ、其の後算砂の囲碁勝負日記お見しに、慶長八年の条下に、十九年以前、試みの碁仰せ付らると雲ふこと見えたり、これに由てまた疑ひお発して、暦書お推すに天正十三年なり、考ふるに、十四年四国お平らげ、十五年九州お鎮め、誠に天下泰平に帰し、十六年聚楽城へ天皇の幸お願ひ、独り関東の北条が不廷のみにて、一統同様に成りし故に、百廃お興す御志にて、碁所おも設け置きたまひしと見えたり、これに依て囲碁は、日本海外の国より勝れり、〈○中略〉囲碁本朝に於て玩び来る事尚しといへども、就中信長公の御時より世に流行し、秀吉公碁所お置きたまひし以来、手合等相定るなり、閏五の事おまた考ふるに、日本文明の頃より天正の半まで、東西南北、一日も易からざるお、秀吉公の武威にて次第に平擾したまひぬる、其の功蹟偉なり、天正十二年夏、柴田勝家お亡して、間もなく十一月廿日、秀吉公大納言に任ず、同十三年、内大臣に成り給ふ、是より宣下なけれども、世人将軍と称す、然ばこの年より既に天下の権威秀吉公に帰す、国家多事といへども意とせず、技芸の詮議に及ぶ、其大量推察すべし、試みの碁被仰付しは十三年にて、御証文お賜しは十六年なり、其の文中に、但仙也儀は、師匠のことに候ゆえ、互先可為とあり、如是の小事にも師弟の礼お存したまふ、行き届し御事と感じ入りぬ、〈○又見煉柯堂碁話〉