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因雲碁話
十三
安井算哲が事
十一歳の時、榊原式部大輔殿御取持にて、伏見の御城に於て、初めて権現様へ御目見仕、慶長十七年月、御切米二十石六人扶持下だし置かれ、駿河へ相詰候内は、一倍十二人扶持くだし置かれ、実子御座なく、算知義お養子に願ひ奉り候処、願の通り仰せ付られ候、算知義、部屋住にて相勤候処、家業相勝候に付、新規御切米二十石、在江戸中五人扶持、一倍十人扶持下だし置かれ、其の後算哲実子出生仕、家業相応に仕候に付、算哲跡式、実子に下だし置かれ、二代算哲と申、相勤め候処、天文相勝、宜候段上聞に達し候て、天文役仰せ付られ、碁の節の御切米御扶持方上り、新規二百五十石下し置かれ、還俗仰せ付られ、渋川助左衛門と相改め申候、当渋川主水先祖に御座候、算哲義は、慶安五壬辰年九月九日病死仕候、右算哲、初名六蔵と雲ひ、元祖本因坊算砂が弟子にて、名人上手間の手合八段に進む、中村道碩と同門にて、ひとしく高名なり、然るに道碩は諸弟子に秀でたるに依て、印可状、並太閤御所より賜はりたる碁所之御証文お添えて譲之、是れより道碩義、碁所仰せ付らるゆえ算哲に定先置かせ打ちしとなり、台徳院様〈○徳川秀忠〉碁お御好遊ばされ、不断御前にて算哲道碩が手合仰せ付られ、御上洛の節も御供仰せ付られ、御在京中、二条御城に於て、囲碁上覧これあり、碁譜も数局伝えあるなり、改めて仰せ付られ、勝負碁といふにはこれなくといへども、互に競争せしなり、数年の間に百二十番手合せ、道碩四十番勝ち越し候となり、