[p.0085]
翁草
百七十四
近年の碁家井上因碩〈当時在京、山崎主税実父、〉は半名人にて上手には少優りぬれども、今少の違ひにて碁所に不至、兎角する間に年も老、其上所労に仍、其身碁所の望も絶、久敷名人中絶して道衰るに似り、此上は本因坊察元未年も不老、家芸我に優りて見ゆれば、是お因碩より上表して、碁所にせんと欲る所に、察元因碩が老衰病屈お見込て、進て勝負お望む、因碩素より右の主意なれば、なじかは否とは申べき、去ながら老衰所労の上なれば手談の試に不及、察元お吹挙せんと欲れども察元不諾、是非古例の通手相の上にて勝敗に可任と申に仍、不得止事其趣お言上して察元との碁有、果して察元勝果せて、望の通察元へ碁所お命ぜられぬ、仍双方の徒互に快からず、陰にて色々評せりとなん、因碩は勝負に不及察元お吹挙せば、老人の執計世に聞えてもおとなしく難なかるべしとの主意也、察元は古来勝敗お以命ぜらるゝ事お、夫に不及して経上る時は、世人の伏せざる処也との意なるべし、双方一理有て可否奈何とも難評、
碁家、本因坊、井上、安井、林也、各同格にて、仲か間也、碁所になれば、残三家お支配して、其道の棟梁たり、其身御紋の時服お拝領し、一等格式違ふ也、されども御目見以上と雲にも非ず、先は格外なる物也、四家互に励競も理りなり、