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本因坊家略紀

小倉道喜
道喜事、道策死後、訳有之家お退き、秋山仙朴と名お改、泉州の堺に住居し、享保十年新撰棊経といふ棊の本おあみたて、ばい〳〵に出す、道策師し道悦未だ存命にて京都に安居し、此事お聞および、江戸道知方へ絶板の事お申遣す、道知が曰、是式の本にて家の障に成り、棊の邪摩と成候様なる事にてはあらずと雲て、捨置べきよし申せしなれども、序に法外なる事お書記候につき、無止事絶板お願、其訳は、今道策流お学ぶもの、予より外に無之と申事、書記候計にて絶板お願しなり、本家のさわりに成るにより、絶板お願にはあらず、序の法外の一くだりにて絶板お願しなり、絶板お願候前に、仙角へは届計、因碩門入其外道策弟子存命の分、境道哲、中村玄碩、木村道全、高橋友碩、其外自分の弟子は申におよばず、一統に道知宅へ招き、道知皆々へ申て曰、此度仙朴法外の一くだり書記し候につき、道悦方よりも申遣せしにより、絶板お願也、若仙朴存寄有之、勝負お願ふまじきものにあらず、其時は各方其ふまへ有やいなやと道知問ふ、其時皆々得心のまし申により、夫より道知御月番の寺社奉行黒田豊前守様へ、右の仙朴編立し本お持参仕、委細の訳お申上、絶板お願ふ、則御聞済にて、願之通絶板被仰付候、堺にて仙朴七日戸〆被仰付候、此方にて深く取候とは違、仙朴も勝負の存寄も無きと見へ、何の沙汰もなし、此時の本お世に仙朴集といふ、此時の因碩は名人因碩の跡なり、門入も隠居して朴入と申せし門入なり、