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因雲碁話

祗南海終身囲碁お絶事
紀藩の士、祗園与一は、十余歳、一夜百首の詩お賦し、稍成長益進、詩名一時に高し、性又囲碁お好み、家にて一日客と碁おかこみ居たるに、隣家の婢あわてながら走り来り、今日主人の家、皆々他行、婢壱人留守として、幼年の子息お庭前にて遊し居たるに、側おはなれし暫時の間に、児あやまちて泉水に落給ふ、とく来て助け給はれと雲すてゝ走り帰りぬ、与一は今行べしといひながら囲碁に耽り、余念もなくかこみ居しうち、時刻過ぬる故、遂に溺れて児は死す、驚き悔めども為べき様なく、隣家へ対し雲解べき言葉もなく、其の日より終身碁局に向ふ事お絶たりと雲、この話、侗庵古賀先生に聞ぬ、