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翁草
百九十
塵墳の知里
碁打に馳走するは無益也、それも深く耽らぬ人はいかゞあらむ、我如き好士は、碁にかゝりては哺お忘れ、万の事お放解、饗するも邪魔に成ゆへに、あるじの心おこめて饗するもはやくたうべ、不興顔にそこ〳〵に挨拶して、はやたうべ仕廻ひて盤に向はん事お思ふ、ある好士、此情お自ら能覚へて、己がもとへ碁の友来れば、其家内に雲含て、菓子盆に焼飯お堆く盛て、茶瓶お添出し置、扠碁にかゝりて他念なき中に、流石空腹になれば、うつし心の中にも、主客ともに彼焼飯おとりて喰ふ、長座に成て其飯尽なんとすれば、勝手より心得て、又能き程に替りお入れ置、飼鳥の餌お入るに等し、左有て一昼夜打ても飢る事なく、家内の世話も少く、客もあるじへの心置なく、快く碁お楽む也、是に過たる碁の饗応はなし、穴賢碁好に尋常の馳走はせんなき事と知べし、