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善庵随筆

予〈○朝川鼎〉先年大橋宗桂の需に応じて、其著述せる将棊の書に序することのありしに、王将といふ馬子(こま)は、何とも疑はしき名なり、王なれば王、将なれば将といふべし、王と将と混称するの理あるまじと、将棊の諸書お考証するに、開祖宗桂より四代目宗桂まで、代々著述する所の将棊図式に、双方とも玉将とありて、王将の名なし、因て思ふに、玉お以て大将とし、金銀お副将とするなるべし、左すれば金将銀将の名も拠ありて、ひとしほ面白く覚ゆ、蓋し五代目宗桂以後、双方の同じく紛はしきお嫌ひ、一方は一点お省きて、差別せしにやあらんと、今の宗桂に語りしに、宗桂曰く、それは必らず然るべし、其わけは毎年十一月十七日、御吉例にて御城に於て将棊仰せ付られ、其図譜お上るに、双方とも玉将と書すること先例にて、王将とはいはぬことの由、家に申し伝へ、今に代々玉将と書上れども、何故といふことお知らざりしに、これにて明白なりと、遂に其嘗て著述せる書お将棊明玉と名お易へ上梓し、予が序お巻首に載たりき、これ細事といへども、邦俗先規お固守しお、容易に伝承の字お改易せざるより、考古の資となることもあるは、純朴の一得といふべし、