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投扇式

投壺は聖人の玩び、其あらそひは君子也とは、世の知る所にして捨べきにあらねども、易く玩ぶ事かたし、此投扇は児女小童おして即席になし易く、酒宴の席に一座の興お催し、労おやすんじ笑お求む、延気なる事又類なし、木枕は悠々たる時用るの具なれば、四海太平の時に順じ、扇お披てに送るは、末広がりの目出度に基く、又通宝十二字は月の数に表し、何れも祝遊の種なれば、其法お聞まほしく思ひし折から、或人投扇の図お予にみせしむ、予又是お携て独考すれども、其意味分明ならず、援に予と信友の交りお結ぶ秀邦斎といへる人あり、兼てより此業おほの聞て、此業に工夫おこらす折からなれば、直に此図お秀邦に与ふ、是より弥手練おかんがへ、投扇する事良久し、終に此業お練磨して、図する所に違ざるにより、捨おかんもほいなく、いざや日待の興ともせんかと、桜木にちりばめん事お思ひぬれども、今花都の玩、専此業有るが故に、其書板に顕れたればいかん、しかはあれども其趣昆雑して、易意にわかつ事かたし、斯ては即席の興ならじと、東都において秀邦是お撰、児女小童の眼に安からしめんと、予に増減の意味お語り、自投扇庵好之と名乗りて、手練弥極りぬれば、尚又風雅の種お蒔て、予に序文の趣述おこひ、図画つまびらかに記せよと、再三の進めによりて、彼れが手練の心ざしお、日陰の紅葉と散さんも心うく、都にまけぬ東の花に彫刻する事にはなりぬ、
安永二みづのとの巳初冬 東都 泉花堂三蝶述
同 投扇庵好之撰之