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拳会角力図会

初心打習心得之事
先初心より拳お打ならはんとおもはゞ、一より十迄の声おおぼえ、眼当とするに、楊枝かまたは竹串などおむかふにたておきて、たとへば相手のいつかうお乞ひとるこゝうならば、串一本たてゝこひとるべし、それもいつかう、りやん、さん、すう、ごう、りうと稽古すれば、打登(うちのぼ)りといふ癖手になる、またりう、ごく、すう、さん、りやん、いつかうとけいこすれば、下手(くだりて)といふ癖付てよろしからず、右の通りのぼりくだりにならぬやう、間ばらに稽古すべし、次に相手のよく出る指は、何からなにへかよふとおもふところにこゝろおつける事、考がえの一なり、併しながら初心のうちは、思案工夫おするよりも、隻達者にうつ事ばかりおこゝろがける方猶よろし、其雲は、〈ま事の角力の地取に押押といふて、隻おす事おおもとして教ゆ、すべて此理に同じ、〉思案工夫は上達の後にすべし、其中に相手より乞に来る手お、我耳に聞込事お、兼々底心におきて打ざれば、何日(いつか)、上手の場にいたる事なし、
拳は酒席のたはむれといへども、礼儀お第一とす、礼儀なきときは、他の見聞もよろしからず、心得べし、多くは相手、にむかひ、我方へ一拳折かけ、二拳めお折かけるときに、は子いなどゝ、下知おなすに似たる言あり、男子にさへよからぬ言葉なるに、女子にまゝありて、甚聞ぐるしきものなり、よく〳〵かん、がへ慎しむべき事なり、〈全たひ是まで聞ゆるしてある、非言といふ事こそ可笑(おかし)、もつとも非言とは、ことばにあらずといふ文字に当れども、行司が団扇お引てより、角力取が濘倒(すべりこけ)たりとて、濘倒(ねいどう)などゝいひしことむかしより聞ず、此外さま〴〵おかしき事あまたあり、考がふべし、〉
相手に向ひ打合時心得之事相手にむかひ打ときは、よく心おしづめ気おおとしつけ、ずいぶん慥にして、他の事おおもはず、一心お拳によせてうつべし、すこしにても外のことおおもへば、勝おとる事なりがたし、隻向ふお取りひしぐやうの心持第一なり、すこしにても億する気味あれば、其気つれて負るものなり、兎角丈夫に気おもちて打ときは、其気に乗じて勝あるべし、
総じて未熟にて弱き拳は、手の癖もすくなく、こえかたよりて一お出せば、さん、すうより外のこえは出ず、五お出せば、りう、ごうよりほかのこえの出ざるもの也、兎角我指の役々お、こえに出す事お得ざる故に、始終手の数、こえの数ともにすくなくして、隻むかふに出す手の多きものばかり、我目にかゝり、あるひはかよひ、押もどりなど、それおもまた取に行事もならず、隻こゝろばかりせき〳〵向ふへ行のみなり、是等の事も段々手錬の上にて、よくかんがへ工夫おなすべし、中通りの拳は、たいてい早戻り、おし戻りなど多くうつものなり、是等の事もよく考がへてうつべき事なり、
上手の拳は、すべて手の癖も多く見得て、指の替もはやし、是また大ひにこゝろ得あるべき事なり、総じて拳お打ときは、相手百人に向へば、百人とも、各々拳の調子の違ふものと知るべし、
相手の調子おそれ〴〵にとくとかんがへ、其勝手、不勝手おこゝうにとめて、先の気変およくはかり、透お見あはせて打事お専一とすべし、扠また拳お捨てうつ事あり、又かゝえて打事もあり、打合あひだに先と合声になる事幾度もあり、此時先の気お能々かんがへて打べし、又此方より先へ取らるゝ手お、合声にする事有、またこえの調子あげさげする事あり、よく〳〵心得べし、実に是等の条々は、はなはだ意味ある事なり、深く考がへ工夫おなして、由断なく打給ふべし、
拳お上達せんとおもはゞ、毎日拳数お五六百拳も、つとめて日数六十日ばかりも打て、また十日計も休み、また六十日も前のごとく解怠なく打続きて、我指にとんと気もとゞまらず、常気(へいき)になるやうにすべし、其後我指のか、さねお、程よくがんがへて打時は、自然と上達し、功者も出来るものなり、
相手の癖に、ずいぶんこゝろおつけ、見出してうつときは、始終の勝おとるべし、斯のごとく心お用ゆれば、此方のすこしづゝの癖は、先の相手へは、ひとつも知れぬ道理なり、たとへおのれ上達すればとて、手のつたなき拳は、おほひに恥辱にして、人々の用ひもなし、此意およく慎しみて、稽古する事お専一とすべし、〈丁べて拳によらず、何事おけいこするにも、隻最初に付たる癖は、終りまで去らぬものなれば、初心のときより、よく心お用ひ、見ぐるしからぬやうにけいこすれば、上達の後にても、実に名人の場へも至るべし、〉
拳おうつに、甚こゝうせかれて、気のたつものなれば、随分臍弁にこゝろおおきて、兎角向ふ相手の、気にもたゝぬやうにうつときは、自然人も恥て工合もよく、打にはなはだ打やすきものなり、拳おならふには、声の調子およくさだめ、自身の意にも応じ、よき調子は援といふところお常々考がへ覚へおくべし、